死を超える

 人は終わりに縛られている。一日の終わり。一年の終わり。好きなアニメの終わり。食事の終わり。楽しみの終わり。悲しみの終わり。死、という終わり。私が知る限り、今のところ不死の人間はいない。死は平等に、理不尽に降り掛かる。これに恐怖するのは生き物として当然の防御反応なのだろうと思っている。

 私は小さい頃から死がそんなに遠いものではなかった。死の淵にあったわけではないが、田舎ではまだまだ自宅での葬儀というものはあったし、親の仕事柄や地域性もあって老人と関わる機会も多かった。死は確実に訪れるもの。その恐怖を知るのは早かったように思う。小さな心はそれに耐えられず傷を負い、パニックを起こすようになった。特に多いのが夜、一人でいる時。不意に訪れる死への不安。恐怖。押し潰されてしまうような、張り裂けてしまうような。普段なら寝られるのに、眠気はいつも通りなのに、寝られない。眠れない。その発作は大人になるまで続いた。だが今現在、ほとんど無い。それは私が自分を前向きに諦めたからだ。

 人は死ぬ。だから必死に生きる。そんな表現があるが、どうだろうかと私は思う。不死とはいかないまでも不老になったらヒトはその必死さを失うだろうか。というか、ヒトはそんなに必死に生きているだろうか。甚だ疑問だ。ヒトが必死に生きているとしたら、私はなんなんだろうか。必死さもなくただ惰性で生きている私の精神はどれに類似性を見出すのだろう。私は必死には生きない。疲れるし、面倒だから。必死にならなくてもいいように計画を練る。31日に泣きながら宿題をすることの無意味さを知ったから夏休みの宿題はやらなくなったが、たぶん人生はそういうわけにはいかない。これはそのためのひとひら。

 私が死への恐怖を乗り越えるために思考したことは私と他の繋がりだ。私は友達が(ほとんど)おらず、人との関わりが希薄だ。人が死を意識するのは孤独である時。そんな一文を読んだ時、そうなのだろうか?と疑問符が沸いた。人は孤独でいなければ死を意識することはないのか?と。だから思考した。私と、私に繋がる人と、繋がらない人たちを。自分の血筋、近所の人間、地元の人間、友達、友達だった人、先生、仲間、好きな人と嫌いな人、元同僚や上司、お店の人、宅配の人、恩人…いたかな?、道行く他人、人間以外のもの、仇敵のカラス、自由猫、羽虫、草木、花、有機と無機。私が大きなものの一部であると確かめる作業。既に分かっていたことだったが再び確信を得る。私は個人で、一人で、私として生まれ私という単位で死んでいくという点で孤独だが、大きな流れの一部だとすればそれは終わりでもなんでもないと。これは言い訳ではない。

 たとえば私の実家の血筋。記録がある限り7代前…100年~150年ほどは追える。寺が火事で記録を消失させていなければもう少し追えたが、大事なのはそこではない。どこからか始まった流れは私を経由し、どこかへと至るということと、それに始まりと終わりがあるとは"言えない"こと。この2つだ。つまり私が先を見ても後ろを見ても、その行為はナンセンスだということだ。私は今を生きているのだから、私は今を生きるものとして出来ることをする。日常にはそれがあるだけで、死は節でしか無い。たとえ私たちの血に連なるものが途絶えたとて、私が分け与えた私の思考や、技法や…そういったものはどこで誰かに、些細な影響を与えるかもしれない。そうやって世界は廻り続けていると考えられる。

 人は死ぬ。今のところ、おそらく、確実に。だが魂は不滅なのだと思う。岩のように、最初は大きくてもだんだんと風化して、朽ちて、欠けて、小さな石ころになって、それこそ苔がむしても消えはしない。どこかで、誰かに、何かの形で受け継がれていく。そう思うと、私が生きていることや悩んでいることや失敗したことや迷惑をかけたことも無駄ではなかったのかなと思う。

 生きることは無駄ではない。私にとってはその結論が支えで、それを体現するために次世代へと渡す荷物を取捨選択しているのだ。伝えるということはヒトの本質で、それに取り組める私は幸福だと思う。これが、私の"死を超越する方法"だ。人は孤独ではない。人の魂は不滅だ。だから今日も生きるのだ。

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