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空きっ腹に蜂

 高校に入学して三ヶ月が経った。
 夏服のセーラー服やクラスの派閥にも慣れ始め、春の陽気が夏の蒸し暑さに変わり始める頃、嫌いな授業ができた。萩原の生物の授業だ。

 つまらない授業は掃いて捨てるほどある。例えば三浦の日本史の授業がそれに該当する。
 でも三浦は「いわゆる」という口癖を持っているため、授業中はその「いわゆる」を何回言うか数えることで時間を潰せる。そう考えればまだ日本史は「嫌い」ではない。
 しかし生物の萩原は、教卓と黒板の間で微動だにせず、毎回毎回機械のように淡々と授業を進めていくだけで、目立った口癖もない。いわゆる「つけ入る隙のないつまらなさ」の持ち主なのだ。まずい、三浦の口癖が伝染した。
 とにかく、私には萩原の担当する生物の五十分間が退屈で、嫌いなのだ。それはもう死ぬほどに。早く終われ。

「ふゎ〜あ」

 あくびをしたら口から何かが出てきた。黄色と黒の縞模様、細長い足、高速で動く四枚の薄い羽根――。
私の口から出てきたのは、どっからどう見てもまごうことなきハチだった。
 ハチは一直線に萩原へ飛んで行き、腕にとまった。そして、ブスっと音が聴こえてくる程の勢いで萩原を刺した。

 静寂に包まれた教室に、萩原の倒れる音がやけに鈍く響いた。続けて、生徒全員が息を呑む音。
 絶句という言葉はまさにこの時のためにあると思った。

「ヤベェ……」

 ひとりの男子がようやく発した言葉を皮切りに、前の席の何人かが席を立ち、動かなくなった萩原の元へ向かう。

「萩原先生! 大丈夫ですか!」
「熱中症か?」
「スナイパーじゃね?」
「出血してないから多分違うだろ」

そんな喧騒を、私は唖然としたまま見ていた。

「でぇぇい!」

 突然バチーンと破裂音にも似た大きな音がして、私は身をすくめた。
 音のした方を見ると、丸めた教科書を持った桐谷志乃が床から何かを拾い上げ、ティッシュに包んで制服の胸ポケットにしまうのが見えた。
 志乃は生徒に担ぎ上げられた萩原の方を少し見やってから、私の方へ向かってきた。

「矢崎さん、ちょっと来て」
「えっ、えっ、なになに」

 抵抗する間もなく私は志乃に手を引かれ教室を出た。連れてこられた先は図書室。
 志乃は分厚い本を一冊手に取り、長机の上に置き、すごい速さでページをめくっていく。

「あった! これ見て!」

「野生絶滅種大全」の856ページ。そこには、大きなハチの白黒写真が載っていた。
 志乃が胸ポケットからティッシュを出して開くと、さきほど私の口から出てきて萩原を刺したハチがぺっちゃんこになって死んでいた。

「あらー、私が産んだ子が変わり果てた姿に……」
「バカなこと言ってないで。矢崎さんの口から出てきたハチと、この本のハチ、同じ種類だよ。見て、目の部分を覆うような波状の模様がまったく同じ。ヤバイよ」
「下の名前で呼んでくれて良いよ。何がどうヤバイの?」

私の問いに、志乃は眼鏡を指で上げ直して答える。

「咲が出したハチ、英名はレモンフラミンゴホーネットって言うの。レモンみたいに黄色くて丸い身体とフラミンゴみたいに長い足が名前の由来。この本に載ってる通り、1870年の初頭に絶滅したんだけど」
「そんな大昔に絶滅したハチがなんで私の口の中から……」
「ちなみに和名はヨネズケンシ」
「嘘だろ、えっほんとに? ハチの名前じゃもう活動してないから? 絶滅ってそういう!?」
「いいから読んで、図鑑のこの文章」
「なになに……『突如南米に現れたその蜂は、他の昆虫や小型の哺乳類のみならず人々をも襲い、死者は五千人にまで及んだ。本来、蜂の天敵である鳥やトンボもその限りではなく、レモンフラミンゴホーネットによって絶滅させられた種は三百にもなる』……ヤバすぎる!」
「そのハチとは思えない巨躯と、刺されたら死を免れない毒の量から『幽霊船』とも呼ばれてたみたい」
「ちょっと病弱なセブンティーン……まってまって、ってことは萩原はもう……」
「助からないと思う」
「う、嘘でしょ。わ、私……」
「不可抗力だったから仕方ないよ。萩原先生を殺したのは咲じゃなくてハチだから」
「だ、誰にも見られてないかなあ!?」
「たぶん目撃者は私しかいないと思う。クラスの誰もハチに気づいてなかったし。でもなんで萩原先生が刺されたんだろう」
「う、えーと、あの、多分ね、たぶんだけど、私が萩原のことを嫌いだったから、かも」
「そんなことって……でも既に絶滅した生物が咲の体内から生成されたと考えると、咲の感情がハチを動かしていてもおかしくないのかな……」
「ハチが私の意志で動いてるかどうか、確認する方法は……」
「もう一回ハチを出すしかないかも」
「……志乃、あんた嫌いな奴いる?」
「バカ! 絶対言わないからね。もし本当に咲の意志通りにハチが動いたら、私らまるで殺し屋とその雇い主じゃん」
「私たちが殺すんじゃない、ハチが殺すんだよ」
「アホ! 萩原先生の時は不可抗力だったけど二度目はわかっててやるんだから私たちが殺すことになるに決まってるでしょ! それにそのハチが逃げたらどうすんの、リスクが高すぎるよ」
「でも一人くらいいるでしょ? 殺したい程憎い奴」
「四組の蓮見可奈子」
「よっしゃ、殺ったろかい」

 四組の教室を出て左に向かうとトイレがある。私と志乃は一番奥の個室に二人で入った。個室は当然一人用なので、狭い。

「ねえ、これでもしハチが意志通りに動かなかったら、私たち二人共刺されて死んじゃうね」
「それは人を殺そうとした報いだと思って受け入れよう。女子高生二人が個室で目立った外傷もなく死んでたらちょっとロマンチックじゃない?」
「志乃、あんたちょっと変だわ」
「口からハチ出せる咲に言われたくない。いいからさっさとあくびして、中学の三年間私をいじめてた蓮見が死ぬように祈りながら」
「あくびなんて出そうと思って出せるわけじゃ……」
「徹夜した次の日の一限目が萩原先生の授業」
「あー出る、出る出る出る。ふゎ〜あ」
「ヒェッ!」

 嫌な羽音と志乃の小さな悲鳴がトイレに響いた。私の口から飛び出た二匹目のハチは扉の隙間から個室を出て、トイレの出入り口へ向かった。
 ハチを追ってトイレを出た私たちは、四組の教室から上がった蓮見可奈子の短い断末魔を確かに聴いた。

 私たちは再び図書館に戻ってきた。志乃がぺっちゃんこになった二匹目のハチを机に置く。

「気分はどう?」

 志乃におごってもらったはちみつレモンを飲みながら私が問いかけると、志乃は俯きながら答える。

「ハチの動きの確証は得られたけど……これで良かったのかな、って感じ」
「罪の意識なら私も背負ってあげるよ」
「うん……」
「というかこのハチ、何で絶滅したんだろ? めちゃくちゃ猛威を振るってたのに」
「ムカデがいたから」
「え?」

 志乃は「野生絶滅種大全」の別のページを開いた。そこには私の手首から肘までの長さはあろうかというムカデの写真が載っている。

「レモンフラミンゴホーネットが現れて数年後に、とうとう天敵が現れたの。英名はセプテンバーセンチピード。その年の九月に突然大量発生したからそう名付けられた」
「へぇー、ムカデがハチを制したのか……」
「和名はヨオジロウノダムカデ」
「いいんですか!?」
「無敵だったレモンフラミンゴホーネットを仕留めるその動きはまさに『会心の一撃』と呼ばれるに相応し――」
「わかったわかった。そんでそのムカデの大量発生によって、ハチは絶滅したわけね」
「そう、このムカデはハチが絶滅した後人間によって駆除されて、結局この図鑑行き」
「ちょっとかわいそう」
「ねえ咲、これからどうするの? その特異体質と一生付き合っていくわけにもいかないでしょ」
「うーん、そう言われても治し方がわからないしなあ……このまま正義の味方になっちゃおうかなmarvelとかに出たいし」
「バカ! 真剣に考えて。あんたがあくびをする度に超危険な殺人バチが野に放たれるんだよ、正義の味方どころか世界を滅ぼす悪魔になっちゃうでしょ!」
「名前何が良いと思う? ハニーハントプリキュアとかどう?」
「アホ! 私は真剣に言ってるの。多分あなたが人を殺したい程恨まない限りあくびをしてもハチは出てこないと思う、絶対に他人を恨まないで、絶対!」
「これからの人生で誰も嫌いになったらいけないなんて無理だよ……」
「……それに、あんたの考えてる正義が、誰かにとって悪だったりすることもある。もう既にそれは起こってる」
「どういうこと?」
「私は萩原先生の授業が好きだったの」
そう言って志乃は図書室を出て行った。
「物好きな奴……」

 志乃が生物に詳しかった意味がなんとなくわかった気がした。ぺっちゃんこになった二匹のハチは、誰にも見られないように埋めた。

 それから二ヶ月間、私は人を憎まないように心がけた。
 私があくびをする度に志乃はヒヤヒヤしていたが、口の中からハチの羽音が聴こえてくることはなくなった。
 夏の蒸し暑さが少し落ち着いてきた頃、好きな人ができた。隣のクラスの原田くんは、私じゃない別の女子のことが好きなようだった。
 ある日私は原田くんが、志乃と二人で話してるところを見た。原田くんは私と話す時より楽しそうな顔をしていた。わかってはいたけれど、今すぐ逃げ出したい気持ちよりも先に、私は萩原の授業を思い出してしまっていた。
 私の口から飛び立ったハチは、数メートル進んだところで力なく地面に落ちた。些細なことで嫉妬して、好きだった原田くんと志乃のことを殺そうとして、結局嫌いになれなかった私には、正義の味方にも、世界を滅ぼす悪魔にも向いてなかったな。私は静かにその場を後にした。



「付き合ってくれてありがとう、原田くん」
「別に良いよ、プリント運ぶくらい。でもなんで俺?」
「原田くんが暇そうだったから」
「否定はしないけどさ……それじゃあな」

 私は咲が原田くんのことを好きだと知っていた。
 あえて咲の目に見える場所で原田くんを相手に一芝居打ったのは、咲の特異体質を治すための荒療治だ。これで咲の体からハチが出てくることはもうなくなるだろう。
 でもきっとこれから、咲は私を避けて生きるんだろうな。二人で図書室に通って解決策を調べていたこの数ヶ月間を思い返しながら、私は俯いた。

 先程まで咲がいた場所には、ひっくり返ったハチが一匹、苦しそうにもがいている。

「やっぱり天敵とは相容れない運命か……っくしゅん!」

 私がくしゃみをすると、鼻の中から一匹のムカデが這い出てきて、死にかけのハチを食べた。

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