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巨悪とスクールバッグ

 小雨が教室の窓を叩いていた。
 深い眠りから目を覚ますと、苦手な数学の授業もホームルームもいつの間にか終わっていて、隣の席の瀧島さんはもういなかった。蛍光灯の明かりに反射して、ニスを塗られた彼女の机が光っていた。
 机の横のフックには瀧島さんのスクールバッグが掛けられたままで、ジッパーが開きっぱなしのそれを、僕はなんとなく覗こうとした。
 すると突然バスン、という音がして、僕はぎょっとした。その音はたしかに眼前の、彼女のバッグの中から聴こえた。
 驚く僕の目を覚ますかのように今度は二回、バスン、バスンと繰り返された。中から押し広げられたような形で、合皮製のスクールバッグが歪んだ。

「何してるの」

 その声に僕は再び飛び上がった。声のした方を見ると、教室の出入り口に瀧島さんが立っていた。彼女の手にはガーデニング用の小さなスコップと、三十センチ程の大きなミミズが五匹、蠢いていた。それらは丸々と肥えた褐色の体を必死にくねらせ、彼女の手中から溢れんばかりに暴れ回っていた。

「それの中、見たの?」

 瀧島さんの問いに僕は首を振った。すると彼女は眉を八の字にして、何故か悲しそうな表情を浮かべながらこっちに近づいてきた。

 バスン、バスン、バスン、バスン。

 その足音に呼応するかのように、スクールバッグが激しく波打った。フックに掛けられたままのバッグの口に向かって、瀧島さんはミミズの乗った右手を近づけた。

 その瞬間、バッグの中からピンク色の長い舌がピュッと飛び出してきて、瀧島さんの手の中でもがいていたミミズを五匹いっぺんに絡めとり、あっという間にバッグの中に引きずり込んだ。ミミズの体液と土の欠片が付着した右手をスカートの裾に擦り付ける瀧島さんを、僕は唖然としながら見ていた。

 バスンと音が鳴り、瀧島さんのバッグがまた歪む。それを見た彼女は再び眉を八の字に曲げた。

「まだ足りないみたい」

 そう呟いた瀧島さんは、他の生徒の机に手を突っ込み始めた。誰かのペンや消しゴムやカッターナイフを掴んだ瀧島さんが戻ってきて、バッグに手を持っていくと、さっきと同じようにピンク色が飛び出してきて、それらを一瞬で絡めとっていった。彼女の虚な瞳が僕を見た。

「最近このクラスで生徒の私物がなくなってるって、ホームルームで先生が言ってたでしょ。ああ、小高くんは寝てたから聴いてなかったか。あれ全部あたしがやったのよ。小高くんは隣の席だからやめておいてあげたけど」

 そう言って瀧島さんは、相変わらず八の字眉のまま、バッグを指さした。

「小高くん、あたしがやったって言わないでくれる? 誰にも言わないでよ。言わないでね。言わないでくれるよねえ」

 おとなしくなったバッグを肩に掛け、彼女は滑るように教室の端へ向かっていった。そして窓辺に置かれた花瓶をおもむろに掴み、足下に勢いよく落とした。派手な音と共にガラスが砕け散り、濁った水が床を汚した。瀧島さんは僕の考えを見透かすように言った。

「小高くん、バッグの中が気になるでしょ。この中に居るのはね、巨悪。巨悪が居る限り、あたしは何をやっても許される」

 そのまま瀧島さんは黒板の脇へ進み、棚の上に置かれていた電動の鉛筆削りの前に立つと、それに自分の小指を突っ込んだ。
 耳を塞ぎたくなるような音が教室に響き、ズタズタになった小指を引き抜いた瀧島さんが、やっぱり悲しそうな表情で僕を見た。

「誰にも言わないでね」

 もう一度念を押すようにそう言うと、瀧島さんは教室から出て行った。

 翌日学校へ行くと、瀧島さんはもう自分の席に座っていて、僕はなんだかほっとした。
 瀧島さんは包帯の巻かれた自分の小指をぼーっと眺めていたが、僕の視線に気づくと「何かあった?」というような表情をした。

 授業中、僕は瀧島さんのバッグが気になって仕方なかった。昨日みたいに彼女のバッグが突然暴れ出さないか心配でならなかった。でもバッグを気にするたびに、瀧島さんが例の「何かあった?」を向けてくるので、僕はずっとドキドキしていた。

 昼休みに僕は担任の教師に呼び出された。
 生徒の私物が今日もなくなっていたことと、昨日の放課後に僕が残っていたことを、担任は淡々と説明した。
 何か知っているかと訊かれた僕は、黙って俯いた。職員室にいる教師たち全員が僕を嫌な目で見ているのがわかって、とうとう瀧島さんのことを洗いざらい話してしまった。

 その後の授業中、僕はずっと眠らなかった。帰りのホームルームで担任が瀧島さんの名前を出すんじゃないかという不安でいっぱいだった。瀧島さんの「誰にも言わないでね」という声が、頭の中でぐるぐる回っていた。

 結局、担任はホームルームで瀧島さんや僕の名前を出さなかった。一人、また一人と下校していくのに従って、僕も逃げるようにして教室を出ようとした。瀧島さんは自分の席に座ったままだった。これからまたミミズをとりに行くのだろうか。
 ふと目が合うと、やっぱり瀧島さんは、眉を八の字に曲げて悲しそうな顔をしていた。

 翌日、教室に瀧島さんの姿はなかった。
 机の横に掛けられたバッグを残したまま、彼女はホームルームの時間になっても現れなかった。教室に入ってきた担任がこっちをちらりと見て、瀧島は休みかと呟き、連絡事項を話し始めたときだった。

 バスン。

 僕の隣の席であの音が鳴った。

 バスン、バスン、バスン、バスン、バスン。

 今度は立て続けに五回。
 他の生徒たちはみんなこっちを見ていた。担任も話すのをやめ、僕の方に近づいてきた。思わず瀧島さんのバッグに目をやると、妙なふくらみができていた。僕の視線を辿って音の出どころに気付いた担任が、彼女のバッグのジッパーを乱暴に開け、中を覗いた。

 うっと担任が声を上げ、バッグを床に落とした。右目を押さえた彼の手の隙間からピンク色の液体が溢れてきて、ぼたぼたと床にシミを作った。彼は呻き声を上げながら、よろけた足取りで教室を出て行った。
 ざわつく教室の中で、僕一人だけが黙っていた。瀧島さんのバッグの中からものすごい速さで飛び出してきた長い舌が担任の右目を貫き、角膜と水晶体を破壊したのを、僕だけが見ていた。

 僕の席と瀧島さんの席の間に転がったままのバッグを、僕は覗き込んだ。
 その中には一匹の巨大なカエルが、窮屈そうに詰まっていた。背中に細かな無数の突起があるそいつは、油膜に包まれた身体をねばつかせながら動き、僕の方を見、大きく口を開いた。唾液が糸を引くピンク色の口腔内には固まった黒い髪の束があり、それを割るようにして消化液で溶けた瀧島さんの顔が見えた。彼女の丸い瞳が一瞬僕を見つめたような気がしたが、喉の動きと同時に呑み込まれ、すぐに見えなくなった。

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