見出し画像

ネームド,ネームレス


 吾輩はトカゲである。名前は沢山ある。

 俺はどうしようもない男に飼われている一匹のトカゲだ。
 俺は飼い主(以下あいつ)から、これまでに大量の名前をもらってきた。しかしその反面、俺はあいつから、ただの一度も名前で呼ばれたことがない。おかしな話だが事実だ。
 そもそも名前というのは、基本的に一人や一匹に一つまでで、一度つけられたが最後、命の尽きるその瞬間まで付き纏うものではなかったか。

 なぜ俺には沢山の名前があるのか。
 どうしようもない男に飼われていると前述したことからも察して頂けるだろうが、そのどうしようもなさが、俺の名前の複数化に起因しているのは言うまでもないことだ。
 あいつは女を取っ替え引っ換えし、部屋に呼び込んでは自らの欲求を満たすだけでは飽き足らず、複数の女と交際をしている、所謂クズだ。
 あいつの部屋に初めてやって来た女は皆一様に、俺を一目見て可愛いだとかちょっと怖いだとか適当な感想を述べた後、必ずこう言う。
「なんて名前なの?」
 そこであいつは、毎回違う名前を口にするのだ。
 一度、俺の名前を尋ねられたあいつが
「ああ、タンジロウだよ」等と言い出した時は危うく食べたばかりのコオロギを吐き戻しそうになったが、その女とは早々に別れたらしくホッとした。
 恐らくあいつは、俺というペットの名前を使い、優越感を覚えているのだ。部屋を訪れる女毎に別々の名前を教え、その名前を教えられた女が馬鹿正直に俺に話しかけ「名前呼んだらこっち向いた!」などと喜んでいるのを眺めるのが心底面白いと感じる、筋金入りのクズなのだ。
 どうしようもないあいつがこの爛れた生活から足を洗わない限り、俺の名前はこれからも増減していく。
 現在俺につけられている名前の内訳(あいつが交際を続けている女の数に依存する)は、
 ザジ、ジュゼ、ゾン、ウズ、ジグ。
 人語を発するための声帯が俺にもあれば、全て片付くのに、とつくづく思う。

 その日、俺のことを「ジュゼ」と呼ぶ女が一晩泊まって部屋を出て行ってから二時間ほど経った頃、あいつのスマホが鳴った。
 あいつは少し怪訝そうな表情を浮かべて、スマホを右耳に当てた。幾度かの相槌の後、あいつの顔が青ざめていくのが、汚れたケージ越しにもはっきり見て取れた。
 スマホを置き、静かに泣き出したあいつを見て俺は少し面食らった。飼われ始めてからもう五年目になるが、あいつの泣いたところを初めて見たからだ。
 目を真っ赤に腫らしたあいつが俺の方へ近づいてきて、内訳にあった一つの名前を俺に向かって呟いた。
 初めて名前を呼ばれた瞬間、俺はその名前が俺の本物の名前になるのだろうと悟った。

 ここからは憶測だが、俺をその名前で呼んでいた女は、何かが原因で死んだのだと思う。そして彼女こそが、あいつの本命だったのだ。
 ケージの前で泣いているあいつを見ながら俺は、愛する者を一人に絞れなかった後悔を名前という形でペットに押し付けるなんて、やっぱり爬虫類以下のどうしようもない男だなと思いながらも、素知らぬ顔をしてあいつに背を向け、シェルターの中へと戻った。
 シェルターの中は心なしか、いつもよりひんやりしていた。
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?