スターチス

 2年1組と書かれた扉を開け、いつものように天城さんの後ろの席に座ると、彼女の首の襟元に小さな三毛猫がいた。窓から射し込む太陽の光で、きな粉のような色の体毛がきらきらと輝いていた。
 そいつはいかにも猫らしく前足で顔をあらい、大きな欠伸をひとつしてからこっちを見た。ぎょっとして目を左右に泳がせていると、突然声が聴こえた。
「君は飯島陽介だろう」
 まるで耳の奥から聴こえたような、空から降ってきたような。初めて聴くような、どこか耳馴染みのあるような。そんな不思議な声が頭の中に響いた。
 恐る恐る「はい、そうです」と口に出すと、怪訝そうな表情をした天城さんが振り向いて僕を見た。恥ずかしさで俯いていると、再び声がした。
「我輩との対話は頭の中で事足りる。声に出すと周りに変な目で見られるぞ」
 先に言えよ。憎たらしい表情でこちらを見据えているそいつに、僕は頭の中で問いかけた。
「お前はなんなんだ?」
 するとそいつは宝石のような目をきらりと光らせた。「我輩はスターチス、天城美咲の守護霊だ。単刀直入に訊くが、君は美咲のことを好いているのだろう?」
「ち、違う!」
 思わず叫んでしまい、今度は教室中の注目を浴びてしまった。さっきよりも険しい表情で、天城さんが振り返った。
「さっきからどうしたの飯島くん、大丈夫?」
 引き攣った顔で頷きながら、僕は無我夢中で頭の中に否定の言葉を並べた。心配そうな目をしながら前へ向き直った天城さんのうなじの辺りには、相変わらず彼女の守護霊を名乗る猫がいて、呆れたようにまたひとつあくびをした。
「今更誤魔化さなくてもよいぞ、君の恋心はすっかりわかっている。君の目に我輩が映る以前から、我輩は君のことを見ているのだからな」

 スターチスの言う通り、僕は天城さんに片想いしていた。
 この高校へ入学してすぐに天城さんを好きになった。彼女とは去年も同じクラスで、五十音順に並んだ席は一年通して変わらず、ずっと後ろ姿を見てきた。ほんの些細なやりとりにも一喜一憂し、気づけば彼女のことばかり考えるようになっていた。学年が上がった際に張り出されたクラス割りの表、二年一組の欄に僕と天城さんの名前を見つけたときは、天にも昇る気持ちだった。

「べた惚れというやつだな……なんにせよ、こうして顔を合わせたのも何かの縁だ、我輩は君の恋路を応援するぞ」
 スターチスの声が響いて、僕の思考が筒抜けだったことを思い出した。恥ずかしさと混乱で呆然としていると、不意に背中を叩かれた。振り返ると、能登圭太がニヤニヤしながら立っていた。二年続けてクラスメイトになったのは、天城さんと能登だけだ。
「一人で叫んでどうしたんだよ、陽介」
 さっきの僕の奇行が気になるらしい。
「なんでもねえよ、英語の課題のページ間違えてただけ」
「ああ、そりゃ叫びたくもなるわ、ドンマイ」
 咄嗟についた嘘を、能登は信じたようだった。僕は手招きをして彼に耳打ちした。
「なあ、天城さんの首のとこ、何か見えないか?」
 彼は一瞬きょとんとした後、さっきよりもニヤニヤしながら、やはり小声で答えた。
「白くて綺麗なうなじが見える、お前の席が羨ましい」
 やはりスターチスの姿は僕にしか見えていないらしい。ひとまず天城さんの首筋を凝視している能登の頭を一発ひっぱたいた。
「こらあっ!」
 瞬間、雷が落ちてきたかのような怒号が響いて、僕は驚きのあまり飛び上がった。座っていた椅子からずり落ちそうになった僕を、能登が不思議そうに見下ろして言った。
「お前、本当に大丈夫か?」
「お、おう、それより背中に虫ついてるぞ、取ってやるから後ろ向いてみろよ」
「マジかよ、頼む!」
 悲鳴を上げながら背を向けた彼の襟首には、白髪をオールバックで固めた厳格そうな顔立ちの老人が、座禅を組みながら僕を睨んでいた。
 その姿には見覚えがあった。以前能登の家に遊びに行ったとき、仏壇に置かれていた遺影。生前空手の師範をしていた能登の祖父だった。数年前に亡くなるまで一度も腕相撲で勝てなかったと、能登が得意気に話してくれたのを覚えている。さっき聴こえた怒声の主は、この爺さんのもので間違いないだろう。
 孫を守る歴戦の老師に軽く頭を下げたあと、僕は「ごめん、見間違いだった」と声をかけた。能登は「お前……やっぱ保健室行った方が良いぞ」と冗談っぽく笑いながら自分の席へ戻っていった。どうやら僕に見えている守護霊は、スターチスだけではないようだった。

 しばらくすると担任の森嶋先生がやってきて、ホームルームが始まった。教卓の方へ顔を向けるが、視界の端でひっきりなしに動いている半透明のもふもふが鬱陶しく、話が頭に入ってこない。
「言うに事欠いて鬱陶しいとは何事だ」
 途端に二つの黄色い目がこっちを睨む。思考が筒抜けだったのをまた忘れてた。
「お前はどうして天城さんに憑いてるんだ?」
 僕が慌てて話を逸らすと、スターチスは喉を鳴らした。
「……四年前の冬、元の飼い主に捨てられ寒さに震えていた我輩は、中学一年生だった美咲に救われたんだ。美咲の家族として過ごした日々は幸福だったが、我輩は生まれつき体が弱くてね、彼女が中学を卒業する前に肺炎に罹って逝った。生前受けた恩を返すために、今ここにいる」
 眼前に揺れる天城さんの艶やかなポニーテールを前足でつつきながら、スターチスは懐かしむようにその目を細めた。

 飼い主の少女を守る化け猫と対面して三日目の放課後、森嶋先生に呼び出された。生徒指導室に足を踏み入れ、何か怒られるようなことをしただろうかと頭をフル回転させている僕に、彼は言った。
「飯島、最近悩みとかあるか?」
 俺の勘違いだと良いんだが……と言って、彼は最近僕の口数が減ったことと、時折思い詰めたような表情をしていることを挙げた。どちらも間違いなくスターチスとの会話が原因だろう。
「担任として、生徒の僅かな変化にも気づいてやろうって決めてるんだ」
 それを聞いた僕は一拍の逡巡のあと、意を決して打ち明けた。
「実は、変な話なんですけど……守護霊の姿や声を見たり聴いたりできるようになったんです」
「へえ、凄いじゃないか」
 予想外の返答に僕は唖然とした。
「信じてくれるんですか?」
「教え子が勇気を出して相談してくれた話を疑ったりしないよ」
 親を呼び出されるのも覚悟の上の告白だったが、彼は拍子抜けするほどあっさりと肯定し、続けた。
「それに、俺も昔聴いたことがあるんだ」
「守護霊の声を、ですか?」
「そう、まだ教師になりたての若い頃だけどね。他の教師と意見が噛み合わなくて、自暴自棄になってた。ある晩何もかも嫌になって、しこたま酒を飲んで海に入ろうとしたんだ。そのとき一度だけ、死んだ婆ちゃんの声が聴こえた気がしたんだよ」
 幻聴じゃなければ良いんだけど、と言って笑った先生の背中には、柔和に微笑む老婆の姿が見えた。
「幻聴なんかじゃないですよ」
 僕がそう言うと先生は「そうか」と呟いて窓際に向かい、遠い目を空へ向けた。
「子供の頃は婆ちゃんに毎日怒られてたっけな。いつもぶっきらぼうで、たまに肩たたきでもしようもんなら『力が弱くてちっとも凝りがほぐれない』なんて言ってたけど、誰よりも優しくて、ここぞというときに助けてくれた。きっと頑固でシャイな人が、生前言葉にできなかった想いを伝えるために守護霊になるんだと先生は思う」
 その言葉に僕ははっとした。先生に礼を告げ、足早に生徒指導室を出て二年一組の教室へ向かった。
 オレンジ色の夕陽に染まった教室に、天城さんの姿があった。彼女が僕の方を見るのと同時に、僕は言った。
「天城さん、昔猫を飼ってたことある?」
 相変わらず彼女の襟元に鎮座していた猫の耳がぴくりと動いたが、頭の中に声が響いてくることはなかった。代わりに天城さんが、少し驚いた顔で答えた。
「私が猫飼ってたこと、飯島くんに話したことあったっけ……」
「その猫、四年前に拾った捨て猫で、スターチスって名前だった?」
 僕の言葉を聴いた天城さんの表情があからさまに曇った。まるで突然異国の言葉で話しかけられたような、困惑の混じった声色で彼女は言った。
「ううん……ペットショップで買った子で、名前はミケだったけど……」
 それを聞いた僕は教室を飛び出し、駐輪場へ向かった。通学用の自転車に跨って、一目散に自宅へと走った。
 必死に足を動かしながら考えた。この三日間、妙に引っかかっていたのだ。天城さんに憑いているはずのあの猫が話すのは、能登以外に友達はいるのかとか、勉強はできているかとか、僕のことばかりだった。
 息も絶え絶えになりながら自宅の玄関を開けた。急な運動で震える膝に鞭を打ち、リビングに置かれた手鏡を掴む。そのまま洗面所に向かい、僕は手鏡を後頭部にかざして、正面にある鏡を見た。
 その瞬間、僕は泣きたいような、笑い出したいような気持ちになった。
「わざわざ猫のふりなんて趣味悪いぞ……姉ちゃん」
 洗面所の鏡と正対した手鏡の中。そこに映った僕の襟元に重なって、三年前に死んだ姉が、いたずらっ子のような笑みを携えて一言「やっと我輩に気付いたか」と言った。

 次の日から僕は、家に帰ると必ず仏壇に手を合わせ、その日の出来事を報告するようになった。ほどなくして守護霊は見えなくなったが、天城さんと会話をするときだけ、微かに背中をつつかれる感覚がする。

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