自分を恥じていた。

ずっと、自分の存在を恥じていた。
存在してはいけない者なのだと思っていたけど、
その謎が最近解けた。

ずっと親にそういう風に思い込まされてきた。
やることなすことを否定されてきたし、嫌ということを許されなかったし、
大切に扱われた来なかった。そしてそれを悲しいと思ったけれど、そういう扱いを受けて当然の存在なのだと、その親の酷い扱いを正当化して、自分を傷つけてきた。自分はダメだから仕方ないって。

でも、今はそう思わない。
能力が低いとか〇〇がダメみたいなのは、家族という組織において許される者ではないと思うんだ。家族だけは、そういう見方をしてはいけない。少なくとも、幼少期から、逃げ場のない子供に評価を突きつけて、追い立てるのは厳し過ぎる。

褒められた経験がないから自信がないって思っていたけれど、そうじゃない。あまりにも否定される経験が多くて、そして恥をかかされる経験が多すぎたから、自信がないどころか、存在を恥じていたのだと今は分かる。
だから、人前でとても緊張するし、汗が止まらないし、顔が赤くなるのだと、今は分かる。でも、その幼少期からの累積してきたものによる、症状であるそれらも、自分にとっての恥であり、だから無限のフィードバックループにはまりこんでいたと言える。

そして、幼少期の自分を思うと、本当にかわいそうだ。
唯一、無条件で愛されるべき幼少期を、家族にさえ愛されず、そして大切にされてこなかったのだから。とはいえ、それでもよくぞ生き抜いてくれたとも思う。寂しいし、苦しかったろうに、それでも一人で頑張って来たのだなと。味方がいれば、もっと楽だったろうけど、家族にも、学校にもそういう見方はいなかったもんな。
どこも敵で、オドオドしているから、カッコウのイジメのターゲットでもあった。そして、それもまた、そういう身分の自分にはぴったりのものであると思っていたから、反撃しようとさえ思わなかったし誰にも相談できなかったよね。一度だけ「先生に言うぞ」って反撃したら、嫌なことをされ無くなる経験をした事があったね。そんな風に、自分を守っていいし、それだけの価値があるって思うよ。
両親、はそう、思わせてくれなかったし、教えてくれなかったけどね。

ビロードのウサギ、という絵本というか、物語がある。
それが、ものすごく好きなんだ。
ただのウサギのぬいぐるみが、少年に愛され「本物」として扱われ生活していく、
そして最終的に本物になるんだ。
僕はこの物語のウサギのぬいぐるみをを、人間、小さな子供として見た。
親に大切にされることで自分の価値を知り、そしてそれに伴うような行動をしていく。そして大人になり、自分自身が自分を大切にできるようになった時、初めて「人」は人になれるのだと思う。

人間って、難しくて、やっぱり周囲の人間の評価を気にしてしまうし、
それをそのまま自分の価値だと思ってしまう生き物だと思うんだ。
特に、子供は、その評価に対抗できるほどの知識も思考もない。
だから、与えられたものを、そのまま受け入れるしかない。
でも、その受け入れたものは、自分のものではないし自分ではない。
だから、それは変えられる。

本物になるのに、親の愛というのはショートカットになるかも知れないが、それがなくとも本物になれると思う。
本物とは、わかりやすい外見でも、能力でも実績でもない。
見えにくいものだけれど、本物同士はそれを分かり合えるし、そういう人間同士で僕は付き合って生きたい。 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?