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ONE-BOOKS

ああ、もう自分には一生小説は書けないのだなと思った。それでまたブログを書き始めることにした。

「僕は生涯にいちども小説を書かないのではないか」というのはずっと長い間をかけてじわじわと僕を蝕んでいた予感だったのだけれど、あきらめるチャンスは人生にたったいちどだけしかないわけだから、まだいまはそれを使いたくないという気持ちだけでもうそのときにはずいぶん遠くまで来てしまっていた。ここまで来たら簡単には戻れない、そういう思いがまたその時を遅らせた。

「いつかおまえは小説を書くだろう」と誰かが言ってくれたわけではないし、なんなら「小説を書きたい」とばかり強く思って生きてきたわけでもない。ただずっと、漠然と自分はいつか小説を書くのだろうと思っていただけだ。
それだのに、「自分はついに小説を書かないまま生涯を終えるだろう」と認めるのは、あまりにも難しかった。

母は、精勤な読書家というよりはただただ実直な愛読家だった。
家事にわずかでも隙間があれば小説を読む、小説を読む以外にその隙間を埋める術を知らないかのように読む、そういうひとだった。盲導犬を育成するための基金へ寄附を続けており、その理由は「目が見えず、本を読めないひとの世界は私の想像を絶するものだから」だった。
自分が小学校に入学したときの感激を、母はこう語っていた。
「図書室へ初めて連れていかれたときの、あの気持ちは忘れないわ。こんなにたくさんの本が読めるなんて素晴らしい、ここにある本を私は全部、全部読んでみせるって、そう思ったの」
その日、初めて小学校の図書室を訪ねてきたばかりの僕は尋ねた。
「図書室の本を全部読んじゃったら、どうなるのかな」
「そのときはね」と、母はしたり顔で微笑んだ。
「そのときは自分の読みたい本を、自分で書く番なのよ」

「どんなひとも生涯に一冊は本を書けるものだ」となぜか父と母は口を揃えて言っていた。かつてどこかでそんな言葉が流行ったことがあるのかもしれない。
でもその「本」が何を意味するのかは、いまでも分からない。
父は大学に残って助教授の職を得るまでのあいだに苛烈なアカデミック・ハラスメントを受けたその教授との共著を一冊出している。書斎に積まれた箱入りの研究書に父の名前が記されていることの意味を僕は長く理解できないでいた。
その一方で父はよく冗談交じりに母をなじった。
曰く、きみはそんなにいろんなことを考えているのだから、やはり考えを本にまとめなければいけない。本にまとめるまでは、誰が何を言ったってひとはまともに受け止めてはくれないのだから。文章にして、ひとの目の触れるところに出すことが非常に大切だ。
何にしてもボールを受け止めたらそれを投げ返さずにいなかった母は、しかし父にそう言われたときだけは口ごもり、手もとに目を落として曖昧な笑みを浮かべるばかりだった。
僕はその理由を知っている。
母はまだすべての本を読み終えていなかったからだ。

僕は小学校三年生のときに「小説」を書いて先生に見せるようになっていた。
だがそれらは多かれ少なかれ自分が読んできたもののコピーに過ぎず、それはおそらく先生も知ったうえで褒めてはくれたのだが、そうしているあいだに僕の心のなかに育ち始めた浸潤性の疑念に、僕はそのあと苦しめられることになった。そこでそれまでやっていたことを止め、オリジナルなものを書こうと思い立ったのはついに高校生のときだったが、そうやって書き始めたものはオリジナルというより単にナンセンスであるに過ぎないと自覚しながら書き続けるほど恥知らずではもういられない年頃になってしまっていた。そうして僕は書こうとすることを止め、書くべきものを探し始めることになる。つまりそういう意味で、僕はもうすでにいちど小説を書くことをあきらめている。

「でも俺はどうでもいつか小説を書かないことには収まらない」と友人に吐露したのは青山にあったエル・トリートのことで、そのとき友人は僕の年収が8桁に達したことを讃えたばかりだった。
「でもおまえの人生自体がすでにひとつの作品みたいなもんだからさ」と慰めてくれた彼に他意はなかったが、家も地元も学歴も(あるいはまともな恋愛も)何もかもを放り出して砂漠をドリリングしている僕が「石油が出ない」と嘆くのに「出なくてもおまえは立派」は親でもない人間がいうには(逆に親がそんなことを言ってくれたことはなかったが)あまりに甘すぎて、僕は無性に腹立たしかった。フローズン・マルガリータの氷を削るマシンがひっきりなしにやかましい音を立て、仕方がなしに大きな声で話すのも早々にあきらめた僕は、黙々とメキシカンビールを飲んだ。
この友人も登場する「新宿メロドラマ」は、まさにいつまで経っても出ない油井をめがけてドリリングしていた僕のそのドリリングだけを描いた作品で、最後の最後まで石油は出ないで終わる。そしてそれにもかかわらず「どんな人も生涯に一冊は本を書ける」というその一冊を、僕はもう書いたことになってしまった。
だからその本のその最後に「叶うことなら次は小説をお届けしたい」と記して、そして何も書けないままにそれから四年が経つ。

ずっと、自分にはまだ書くことがないだけなのだと思っていた。
書くべき事はいつかやってくるし、向こうからやってこなければ自分から探しに行けばいい。小説を書く力などはそのときのため、箱に鍵をかけておけばいい。いずれ書くべきものに出会ったとき、僕は箱の鍵を開け、仕事にとりかければいいだけだ。
書くべきことは単にいま不在なだけに過ぎない、自分には準備ができていると、僕は信じていたのだ。

大学でふたつ下だった後輩のカメラマンを仕事に誘うとき、僕は無理矢理にこう言った。
「いま首から提げてるカメラを職場に持ってきてもいい。3ヶ月だけ俺たちと一緒に仕事をしてみろ。つまらなければそれで辞めたってかまわないんだ。でも3ヶ月後におまえがそこで見たものを写真に撮りたいと思ったとき、それがおまえのファインダーに映ることは決してないだろう。おまえの心にしか残らない風景、写真には写らないものを見せてやる。いいか、心のシャッターを切ることを覚えるんだ。おまえをそういうカメラマンにしてやるよ
それはもちろん漁師に向かって「魚ではなく人をとる漁師になりなさい」といったイエスに倣う罰当たりなリクルートに過ぎなかった。しかしそれでも、「明日で3ヶ月になるけど」と靴を脱いだ足で椅子をグルグル回しながら尋ねた夕方、彼はそれを写真に撮ったあとカメラを下ろして、「もう少し、ここで何が起こるのかを見ていたいと、思います」と答えてそこへ残ったのだった。

その頃彼は堅牢性で世界的にも知られたRICOHのカメラで一日に数百回のシャッターを切っていて、やがてこのカメラのシャッターはそれに耐えきれず壊れることになる。しかしそれにもかかわらず、彼が自分の撮った写真をプリントしてひとに見せることはついぞなかった。「あのひとはいったい何の写真を撮ってるんですか」と怪訝そうに尋ねるひとがいるたびに、「心のシャッターを切っているだけです」と僕は答えていた。
やがて会社が傾き始めた頃にはそれからもう数年が経っていたが、僕もとうとう疲れ果て、「おまえもこれだけ写真を撮ってきてるんだからいずれは個展のひとつもやらないといけないし、なによりもまず写真を焼かないとさ」としつこく言うようになるのだが、それはまさしくかつて父が母に当てつけていたそのままの繰り返しだった。そしてそのたびに彼が答えて言うには「そう思って、いまいいのを選んでます」ということなのだった。

英会話教室へ通い出して、自分にはどうしてもできないのがロールプレイだと分かった。どうも英語とは関係のないところで自分はロールプレイに向いていないのだと思う、そこを回避してレッスンを進められないか相談させてほしいと教室へ伝えながら、僕は数年ぶりにカウンセラーのところへ訪ねる必要があると感じていた。
そのときにはもう一〇年ものあいだ僕とセッションをつづけてきたカウンセラーは話を聞くと、私の仮説はこうですという話をしたあと、よろしければと、ある検査を受けることを提案した。
なるほど、と僕はもう理解し始めていた。そういうことか、と。

ロールプレイがうまく進められないと分かった頃から僕にはもう降参の用意ができていた。2週間前に検査を担当したのとおなじ先生がコップの水に口をつけたあと、
「ではあなたには石油のありかが分からないのですか、ここだという風に、何かイメージで捉えることもないのですか」
と、だいたいこういうようなことを訊いた。
「ありません。私はまったく別のものを目印にドリリングしています」
「それで石油は出ましたか」
「僕は自分が石油を見たと思ったこともありません」
あなたは自分のやってこられたことを誇りに思うべきです、と先生は言った。あなたは充分立派にここまでやってこられたのですから、と。
そうか、と僕は理解した。自分が探していたのはもうとっくにみんなが手にしているもので、この三〇年来の自分の来し方が傍目にはいかに滑稽なものであったかを理解して、決して石油の出ないところを僕が轟音を上げて掘削している様子をみんなが遠目に見守りながらどんな気持ちだったかを初めて了解して、そうして僕は自分には小説を書くことはできないのだということを完璧に理解した。
そして同時に僕は、「新宿メロドラマ」を大切にしてくれるひとがいる本当の理由を知った。

あの日から人の心を撮るようになったカメラマンは、それからさらに何年ものあいだ写真を焼くことがなかった。しかしあるとき唐突に彼が差し出したアルバムには白黒でプリントされた写真がいくつも挟まれてあって、それは彼と寝起きしては毎朝手ぶらで会社へ向かうだけだった僕がやがて着るようになったジャケットの後ろ姿で、いつからか片手に持って出勤するようになったスケジュール帳で、事務所で履き替えたあとゴミ箱へ捨てられた古い安物の革靴で、広くなった事務所へ引っ越した日の宅配ピザだった。
彼が毎日毎日、文字どおりカメラが壊れるほど繰り返しシャッターを切りながら、少なくともひとつの物語を追いかけていたことを何年も経ったそのときに僕は初めて知ったのだった。マルガリータの氷を砕くマシンの音がして、どんなに大きな声を出してもやがて口をつぐむしかなくなったあの夜に、僕はあれからもまだずっといるのだと思った。

「いかがですか」と先生が訊いた。
「僕の書いた日記はさぞかし面白かろうということが分かりました」と僕は答えた。「読者のみなさんにとっては」
だがそんな風に自分を客観視することは、僕がずっと書きたいと思ってきたものを書くことからはもっとも遠い行為で、やはり二度と戻れない道だった。
「僕にはきっと小説は書けないのでしょうね。自分はいつか小説を書くだろうとずっと思っていたのですが」
最後には少し、声が震えた。
「もう少し早く知りたかったな」
先生がなんと言ったかは覚えていない。ただ、想像することはできる。
でもあなたの読者はあなたの書いた物を楽しみにされているのじゃないですか、と彼女は言ったはずだ。
あなたはまだ書きたいと思ったことを書くことができるのですから、それが小説であろうとなかろうと、あなたにしか書けない物を書いていくということはできるはずですと、先生はそう言ったはずだ。
それは僕の聞きたい言葉ではなかった。でも先生の仕事がどういうものかは痛いほど分かった。
それから僕は、余生を送っている。

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