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うつわ としての身体

ここ最近はあまり絵を描く気が起きずインプットと称して好きな演劇を観まくっています。前に歌舞伎が好きということを書きましたが、あれから文楽にも興味が湧いて本を読んだり聖地巡礼などをしたりかなり楽しく過ごしていたら、ふと自分の制作の中で言語化できないけどこだわっていたことがスッと言葉にあらわれて腑に落ちてきました。

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私は人間の絵を描いていますが、私が描く人間はみな無個性なんです。ただ単純に身体感覚を描きたいので、内面性や生命感というものはノイズになります。生きても死んでもいない人間を目指して描いています。今までそれがどういうことなのか自分が納得いくようにうまく言葉にできませんでした。

2月に文楽を観たとき、舞台上にいる人形・人形遣い・義太夫たちに、自分は一体何を観ているのかわからなくなりました。太夫の語り、三味線を観聴きしながら、人形遣いの操る人形に登場人物を重ねる。すべての身体が別なのです。生きた役者の芝居は(役者の)一つの身体を用いた表現を受け取る感覚ですが、誤解を恐れず言えば人形はからっぽなのです。そしてからっぽだからこそ義太夫の語り、人形遣いの操る表現、そして観客のまなざしを受け止めることができるんだと思いました。そして私はそのうつわとしての人形の身体にとても惹かれ、私が描きたいと思っているのはそれなんだと気がつきました。

そんな中で4月にダンサーのひびきみかさんの公演を観に行きました。
http://www.hibikimika.com/2015/?p=4827

ひびきさんはコロナが私たちの生活にあらわれる前の2019年、瞽女(盲目の女芸能者)を題材に山での無観客公演を行っていたり、今回も各回客席数3席という中での公演であったりといつも"見る/見られる"ことについて考えるきっかけをくれます。
2019年のシアターXでの公演では、プリミティブなダンスが連続して繰り返されるごとにだんだん機械化していくような…曲に合わせた"おどり"から純粋な身体の"動き"に解体されていくような表現に、自分の中の無意識の固定観念に気づかされたりしました。

ひびきさんで印象的な話があります。私の個展に来てくださったときに「これは何?」「どうしてこうなっているの?」と聞かれることが多い私の絵を見ながら「わかるわ〜」と呟きながらニコニコして見ていました。私は絵を描く時に共感を期待して描いていなくて、『わかる』という感想をいただくことを想定しなかったのでとても驚きましたが、そのときは緊張して詳しくは聞けませんでした。。

そして4月の公演。
ひびきさんが奥のカーテンから出てきたとき、着物を着てキョトンとしながらおどる姿を見て、どんどんその身体に意識が引き込まれていきました。

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生きた人間がおどっているのにどこかからっぽのような…ひびきさんがひびきさんの身体を操っているような…不思議な感覚です。あれ、でもそれって人形遣いと人形の関係に似てる…。もしかして、私の描きたいと思っているうつわとしての身体と近いのかもしれない。僭越ながら「わかる…」と思いました。おどりを見てそんな気持ちになったのは初めてでした。

終演後、少しひびきさんとお話した際に「近藤さんの絵をイメージしました」と言っていただき…(!)リップサービスかもしれませんがすごくうれしくてかなり興奮しながら帰りました。(そして開演からずっと頭の中で言葉が降って湧いて出てきたので脳が疲れすぎて帰って倒れるように眠りました)

実際のところはひびきさんの意図と合っているかはわかりません。私が今感じていることを見ていただけなのかもしれません。(でも感じていることを投影させることができるってすごいことだと思います。それこそうつわじゃん!と思ったり…。)
今度ランチでも、とお話しているのでお話できるのが楽しみです😊

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