見出し画像

日本人と恥の文化

罪の文化と恥の文化

動画(note内容と同じ)


「罪の文化」と「恥の文化」


「罪の文化」、「恥の文化」というのをご存じだろうか。
米国の人類学者ベネディクトが「菊と刀」(1946年)において用いた文化類型であり、それぞれ西欧と日本の文化を表している。

ここで彼女は西欧的な「罪の文化」では、道徳は絶対的基準をもち、個々人が良心による内面的な罪の自覚に基づいて行動を律している、としている。
一方、日本人にみられる「恥の文化」は、他者の目を恐れて自分の行動を律する、としている。

わかりやすく噛み砕く。

「罪の文化」は神の目、「恥の文化」は人の目を気にする、ということだ。

西欧的な考えでは、内在する、もしくは超越する存在である絶対的な「神」との対比で物を考えるが、日本的な考えでは、その対比の対象はより現実的な、目の届く「人」となるのである。

内在もしくは超越する神の存在を日本人は「非科学的」「非論理的」「非現実的」と思う人もいるかもしれない。

それは過ちだ。

内在もしくは超越する神の存在

例えば、ある真とする論理Aがあるとする。
多くの場合がそれを真とする理由として前提Bがあるはずである。
そして前提Bにも前提Cがある。
これを繰り返せば、必ず理由の存在し得ない前提があることに気づかされる。
このように全てのことで人はなにかしらを盲信し、また人間の理解外のことが存在することを自覚できる。
世界が成り立っている以上、理解外のそれはあると考えられる。
それこそ内在もしくは超越する存在だろう。
神が存在するというのは、己の盲信とそういった存在の自覚に過ぎないのだ。

話を戻す。

このことから、西欧は、世界の外に神という基準を置くことで絶対的に考え、日本は、世界の中に存在する現実的なものを基準に相対的に考えるということがいえる。
つまり、日本と西欧では世界観が異なるといえる。
西欧は巨視眼的、絶対的価値観、日本は近視眼的、相対的価値観と考えられる。

相対的価値観の問題点

この日本特有の「恥」の世界観の何が問題かを考える

曖昧な自己と責任

まず、絶対的な価値観ではないから、確固たる自己を持てないのである。
個人の独立性が弱いのだ。
フロイト流の汎性論の言葉では「幼児性」と表現できる。これは近視眼的価値観とも合致する。
また、自己の存在が曖昧であることも意味する。

この曖昧さは自己の共同体での立ち位置を曖昧にし、共同体との境目を曖昧にし、責任の所在も曖昧にすることが往々にしてある。

無責任な社会が出来上がる訳である。

日本では自己責任という言葉が度々話題となるが、これは自分は責任を負いたくないという他者の言葉であろう。

国や天皇が積極的に責任を回避してきた歴史はそれを助長しているように思える。

責任を持たないことは、結果が分析出来ないことにつながる。
結果を分析することは誰が何をしたかを明確にする。つまり責任を明らかにすることだからだ。
結果が分析出来なければ当然害は多い。

「死ねば皆仏」、という考えはそれを表しているのかもしれない。
死んでしまえば責任も何もかも曖昧にしてしまおうという魂胆なのかもしれない。

利己的な意識

また、相対的価値観では、絶対的な正義や真理、公平といった視点も薄い。
当然そういった価値観で判断できないと、表層的な、現実的な、利己的な価値観で判断せざるを得ない。

自己の存在が曖昧だから、自信がないから、自己保存の観点からも自意識過剰、利己的になるのはしょうがないと考える。

神々ですら、ご利益があるから信仰するといった具合に利己的である。

日本人は他人に無関心といわれるが、利己的故だろう

ただ、利己的なのと共同体との境界が曖昧故に一見集団主義に見えるのではないかと考える。
だが、日本的な相対的価値観は、個人主義でもなく集団主義でもないことがわかる。
東大の高野教授の研究では、日本人は集団主義という通説が誤りといわれている。
往々として足の引っ張り合いが認められるのがその証左だ。

これも相対的価値観で、目の前の他者の上がり下がりで自己の上がり下がりを評価するため、同じ共同体の他者が上がることは自分が下がることを意味し、それが許せないためであろう。

狭い社会であればそれでも通用したが、グローバルな社会に進展してそれは害となることが多いと考える。

共同体への依存

それでいて、共同体との境目が曖昧故に、共同体に過度に依存しているように思われる。
特に国やお上というものに日本人は過度に依存しているように思う。

お上のやることは従順に従い、お上への抗議はまるで自分のことのように反発する。そういった人が多いのではないか。

また、これは政治への無関心とも関係する。
政治は生活するうえで不可欠なことである。
政治への無関心は裏を返せば、政治を誰かに丸投げすることだ。
この丸投げはその誰かに信用がなくては成り立たない。

丸投げすること自体が民主主義の市民として幼稚であるし、その自覚のないことは言わずもがな幼稚である。
そしてこれらのことから、国と国民との関係が、親子関係、庇護する・されるの関係に近いように思われる。

これも遠因は相対的価値観だと考える。

共同体よりの外への冷たさ

共同体より外への冷たさも問題であろう。
表面的な対応や体裁は取り繕うことが出来るが、世界観の外の存在で想像の外の存在だ。
社会弱者や自分と異なる者へは他人事となり、理解も乏しい。
男女差別や格差もそれが原因のひとつと考える。

まとめ

恥の文化はこのように多様な現代社会において行き詰まりを見せているように思われる。

そもそも歴史学的に西欧なども母性的な相対的価値観が先にあり、
外敵や異なる共同体と接触するうちに絶対的価値観へと移行した経緯がある。

現在グローバル化はより急速に進んでおり、旧態依然の恥の文化では対応できなくなると考える。変化が求められると考える。

ご意見、ご指摘あればコメントして頂ければ嬉しい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?