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心臓がぴょんとはねる話・怪奇現象消失編、と、ごめんなさい

節分も過ぎたところで
福岡はずいぶん早い花起こしの雨?という感じの雨続き。
ふと地面を見ると、オオイヌノフグリのつぼみが!
早くあたたかくなるといいな、と思いつつ
あんまり早い春もいろいろと心配になったり。

あぁそれで
きのうの続きだ(きのうの話はこちら)。

片側3車線の国道3号線を60キロで走っていて
信号無視の車につっこまれ、車は一瞬にして廃車になった…
というか、直せないこともないけれど
修理の見積額が新車価格より上ということで
相手の保険会社に新車を買ってもらった。

その後のむちうちは
医者の初動の対応がまずかったこともあり
(リウマチの誤診騒ぎといい、ぼくの人生はこんなんばっかりである)
ずいぶんひどい目にあったが
いまはほとんど、なんともなく。

だが、そんなことよりも。

あの事故を境に
それまで、あれほど悩まされていた怪奇現象が
消失したのである。

いつごろから、だったのだろう。
10代だったのは間違いない。
金縛りなどはしょっちゅうで
戦争中の日本軍の制服を着た人が現れて
手を引っ張られて連れていかれそうになったり、した。

深夜の大学ではだれもいないのに足音がしていたし
土石流の現場のあとに建てられた建物に泊まったときには
ポルターガイストがひとばんじゅう起きた。
そしてベッドわきにあらわれた誰かと
そうなんだ、大変だねぇなんて話していた。

こういう現象に遭遇する人を
精神的な病にかかっていると片付ける人もいるみたいだけれど。
まぁ、そうだったのかもしれないけれど。

アニメなんかでよくあるみたいに
印を切ったら見える!
みたいな、そんなカッコいいことならいいのだが
いつ出てくるかわからないのだから、始末が悪い。
迷惑なことこの上ない。

それが、あの事故以来、ふっつりとなくなったのだ。

ぼくの世界は平和になった。
ばんばんざいである。

もう二度とあんなことはごめんなので
そっち方面のドアが二度と開かないように
自分なりに、気をつけている。

どういうときに
ドアが開く気配を感じるかというと
怪奇現象にまつわるものを
見たり聞いたり読んだり、しているときだ。
フィクションであれ、ノンフィクションであれ。

ぼくは、話題になったアニメはとりあえず
アマプラにあれば第一話は見るようにしているのだけれど
(その続きを見ないのは時間がないからであって
 断じてつまらないからとか興味がないからとかではない)
呪術廻戦は、だめだった。

翻訳の仕事でそちら系の話は受けないのかと言われれば
そんなことはない。
お話をいただければ
反社会的だったり反倫理的だったり差別煽動系とか
関係者のSNSが陰謀論だらけとか
そういうのでないかぎりは
よろこんで受ける。

仕事のときには、べつのスイッチが入っているから。
ぼくの仕事は
作品全体の流れを把握して
作家がはりめぐらした糸を回収しながら
もとの作品そのままに
情報の出てくる順番や
感情の動きを
日本語で再現していくことだ。

読者のみなさんに、楽しんでいただけるように。
考えているのは、それだけ。

だから
自分ではぜったいに使わない悪態も
性的な表現も
猟奇殺人犯の狂気も
めっちゃ気持ち悪いの血塗りの現場も
作家がそういう表現を使っている以上は
過激なくらいの日本語にしないと、つまらない。
そう思って訳している。

仕事として人の作品をあずかって
日本語に移し替える作業をしているあいだは
読者に楽しんでもらうんだ!ということに夢中で
ぼく自身のプライベートな「ドア」が開いたりする余地なんか
ありはしない。

けれど。

そういうスイッチが入っていない状態で
心の鎧を脱いで
いまからゆっくり楽しむんだ、というときには
「ドア」がきしみはじめる。
出てきても、いいかなぁ、という気配を感じる。
だめだめだめ!と、あわててドアに体当たりする。
そんな感じだ。

断じて怪奇ものを否定するつもりなんかなくて
真剣に創作や翻訳に取り組んでいらっしゃる方々を
不愉快にさせていませんようにと心から願っているけれど
ぼく自身は、プライベートな時間に
怪奇ものを楽しむことはできません、ごめんなさい
と、伝えておきたいなぁと、思った。



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