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【訳書のこと】『第三帝国のバンカー』翻訳裏話

先日、1月22日に新しい訳書が発売された。

『第三帝国のバンカー ヤルマル・シャハト
 ――ヒトラーに政権を握らせた金融の魔術師 』
(ピエール・ボワスリー/フィリップ・ギヨーム脚本
 シリル・テルノン作画
 鵜田良江訳、パンローリング)

というバンド・デシネ(フランス語圏のコミック)だ。

1877年に生まれ、1970年に没した
ドイツの経済学者・政治家ヤルマル・シャハトの
後半生を描いた作品。

第一次世界大戦前のドイツ帝国時代から大手銀行の重役を務め
戦間期のワイマール共和国時代には
ハイパーインフレの沈静化に成功。
ワイマール共和国時代と
ナチスドイツの時代の2度にわたって
ライヒスバンク(中央銀行)総裁を務めている。

1931年からナチ党に協力し
ヒトラーの首相就任を後押しした。
経済大臣として再軍備の資金調達に貢献したものの
ヒトラーが戦争を望んでいると気がつくと反旗を翻し
強制収容所に送られている。
戦後はニュルンベルク国際軍事裁判の被告になったものの
無罪となって
発展途上国の金融界で活躍した。

シャハトというのは、そんな人物だ。

93年という長い生涯の大部分を
激動の歴史を辿った近代ドイツの
政治中枢の近くで過ごしている。
自らの信念に忠実な人、ではあるのだろう。
だが、正義の人か?となると
首をかしげざるをえないところも、あった。

本書は戦後のイスラエルの空港で幕を開ける。
バンド・デシネならではのユーモアが随所にちりばめられていて
美しい絵の力ですんなりと読み進められるけれども、考えさせられる
そんな作品なので
ぜひ手に取っていただければと思っている。

そして、裏話だ。
翻訳者にとっては重大なこととはいえ
気楽に読んでいるだけだという読者の方々にとっては
大した話ではないかもしれないけれど。

翻訳者は表記ひとつ決めるためにこんなことをしているんだ
という感じで、読んでいただけたら。

ファーストネーム「Hjalmar」の表記を「ヤルマル」にしたいきさつ

シャハトのファーストネームは
「ヒャルマル」と表記されることが多い。
Wikipediaもそうだ。

本書では、タイトルを見ていただけばわかる通り
「ヤルマル」としている。

一般的と思われる表記を覆すのだから
根拠なく、こんなことはしない。
以下に、「ヤルマル」とした理由を列挙していく。

理由その1

参考文献『シャハト- ナチスドイツのテクノクラートの経済政策とその構想』 (川瀬泰史著、三恵社、2017)

本書の訳出にあたっては
たくさんの書籍やウェブサイトを参考にした。
中でも大いに助けられたのが、上記の
川瀬泰史氏によるシャハトをめぐる論文集だ。

シャハトのファーストネームについて
上記文献のp3にこうある。

「正確にはヤルマールと表記すべきである。」

同じくp3に、妻に会って尋ねたところ

「ヤルマールが正しい」

と即答された、とある。

音引き問題はまたあとでとりあげるけれども
ヤルマルのほうがいいのではないか、という気がした。

理由その2

参考文献『ヒトラー- 巨像の独裁者』(芝健介著、岩波書店、2021)

上の本も、訳出にあたって参考にした。
そのp132にこうある。

「恐慌期以後、ヤルマル・シャハト(政府の通貨委員や」

ここで問題にしているのは名前の表記だけなので
前後は省略して引用させていただいている。

もうこのあたりで
「ヤルマル」で手を打ってもいいのでは……と思われるかもしれないが
ぼくはしつこいので、もう少し調べていく。

理由その3

参考文献『ヒトラーを支えた銀行家』(ジョン・ワイツ著、青山出版社、1997)


上の本のp10に以下のような記述があった。

シャハトが生まれたとき

「ヒャルマーというデンマーク人の名前を前につけるべきだと祖母のエガースが言い張った」

のだという。
この祖母という人は、デンマークとドイツの国境地帯の出身である。

ここでは「ヒャルマー」という表記になっているけれど
そこは問題ではない。
ドイツ語圏ではHjalmarという名前は見慣れないけれども
北欧の国々ではときどき見かける。
デンマーク、スウェーデン、フィンランドと見つけたが
いずれもカタカナ表記は
「ヤルマル」あるいは「ヤルマール」である。以下のように。

このような感じなので
北欧にルーツのある名前ならば
「ヤルマル」が妥当なのだろうと思った。

まぁこのあたりで手を打ってもいいのだろうけれども。
ぼくはしつこいのだ。

理由その4

参考文献なんか探さなくても
動画で発音を聞けばいいんじゃないか。

そう思われた方も多いと思う。
もちろんその線も探った。
以下の動画は、本書にも登場する
フリッツ・リンデマンについてのドイツ語の動画だ。
リンデマンは
1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件を立案した
国防軍抵抗グループの一員である。
使者として活動し
シャハトとも複数回会ったと伝えられている。

2分22秒あたりにシャハトの氏名が出てくる。

「ヤルマル・シャハト」と聞こえる。

もういいだろうと思われるかもしれないが
ぼくはしつこい。

理由その5

こうなってきたら
本人の発音を聞きたいと思うのが人情である。
いやもちろん、最初からこれを探していた。

とはいえ、自分のフルネームというのは意外と言わないものだ。
シャハトがフランス語でしたスピーチの映像まで掘り返したが
なかなか見つからなかった。

シャハトはフランスにも米国にも留学していて
母語のドイツ語のほか、フランス語も英語も堪能だった。
ニュルンベルク国際軍事裁判では
ドイツ語と英語のちゃんぽんで証言などをしていたけれど
いくら耳をすましてみても
ファーストネームは聞こえてこない。

そんなこんなで
やっと見つけたときには
思わずガッツポーズが出た。

次の動画は
戦後のニュルンベルク国際軍事裁判の記録音声が
YouTubeに公開されているもの。

1946年4月30日の公判。
始まってすぐに
氏名を言うようにと求められ
シャハトがフルネームを名乗っている。

「ヤルマル・シャハト」と聞こえる。

もうこれくらいで十分だろう、というわけで
ファーストネームの表記は「ヤルマル」に決めた。

最初からこの動画が見つかっていれば
こんな回り道はせずにすんだのだけれど。

ところで「ヤルマール」にしなかったのは
コミックの翻訳では
吹き出しのスペースが限られているので
できるだけ文字数を減らしたかったから、でもある。

そしてドイツ語では
たとえ「長母音」と呼ばれる母音であっても
日本語のように音引きで1音節増えるということがない。

ドイツ語では
母音ひとつと、そのまわりの子音とのひとかたまりで、1音節になる。
たとえばSchwarz(黒)という単語は
日本語でカタカナ書きすれば「シュヴァルツ」になり
4音節になってしまうけれども
ドイツ語の発音では、母音はひとつしかないから、1音節だ。

1音節というのは、歌うときには音符ひとつぶんということ。
子音がたくさんあるからといって音符の割り当てが増えたりはしない。
rが入っているから音引きでもう1音節追加ね、なんて
そんな優しいルールは、ドイツ語には存在しないのだ。

だから
短母音を音引きありにするのはどうかと思わなくもないけれど
長母音の音引きありなしというのは
日本語の語感の問題だったり
書き手の好みによるところが大きい。

というわけなので
音引きはなくてもいいんじゃないかと思った。

そこで
「Hjalmar」の表記は「ヤルマル」とした。

でもどうして
「ヒャルマル」が定着してしまったのだろう、と考えたのだけれど
英語読みからきているのかもしれない。
ニュルンベルク国際軍事裁判の記録音声では
英国出身の裁判長は
「ヒャルマル(ヒャルマー)」と発音していた。

下の動画は、米軍が制作してドイツで公開されたという
ニュルンベルク国際軍事裁判のドキュメンタリー映画である。
終わりのほうで
ニュルンベルク国際軍事裁判で裁判長をつとめた英国の法律家
ジェフリー・ローレンスが判決を言い渡している。
1:11'45"あたりでシャハトの名前が読み上げられる。
(ホロコーストに関連したショッキングな映像もあるので
 苦手な方は見ないほうがいいかもしれない)

「ヒャルマー」と聞こえる。

こいう米国発の音声が広まったのかもしれない、と思った。
シャハトもめんどくさくなって英語の発音を受け入れていたのだろうか。
もしかしたら、昔から英語圏ではヒャルマルと呼ばれていて
それに慣れていたのかもしれない。
詳細はわからないけれども。


最後に!

さてこの
『第三帝国のバンカー』だが
電子書籍版では、なんと4分の1ほども無料で読めてしまう。
しかもフルカラーで。
↓はKindle版。

書影の下の「サンプルを読む」をクリックすれば
そのままブラウザで試し読みができる。

もちろん、途中まで読んだ勢いでご購入いただいても、かまわないけれども
(当然ながら、訳者としてはそうしていただけると助かる)
海外マンガはあまり読んだことがないという方にも
バンド・デシネならではの美しい絵を
少しだけでも楽しんでいただけたら、と思っている。


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