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「学ぶ」ことを通して自分を知る (オープンゼミ連載 第五回)

皆さんこんにちは! 三年の新野翔斗です!

今日は知人の作った映画を観に行きましたが、やはり、あっつい!笑(溶ける…笑)

映画を作るってすごいなぁ、その熱量学ばなきゃな…と反省したのでした。


さて、今日は弊ゼミの宇多川元一准教授にインタビューをしました!

是非最後までお読みください〜〜

研究とは自分を知る過程である

ーーーーーー今日はよろしくお願いします!

まず聞いてみたいのは、なんでオープンゼミっていうイベントが出来たか、ですね。 早いもので、今年で4年目になるわけですが、どのような過程を経て今があるのでしょうか?

宇田川)よろしくお願いします。

なんでだったっけ?笑
というのは、冗談で、始めようか、と提案したのは僕でしたが、ゼミメンバーが自主的に継続的な開催をしているのが実情です。

オープンゼミのこと、それ自体のことよりも前に、僕自身が大学教員としてずっとテーマなのは、学生に学ぶことの楽しさとか、自分にとっての意味みたいなものを実感してもらうことだなあとこの質問から改めて思っています。


研究って、頑張れると楽しさがわかるんですが、頑張れるようになるまでのハードルが結構大きいんですよね。そのハードルで結構な比率が躓きます。


その理由は、研究のやり方がわからない、というものもあるとは思うけれど、実際はじゃあやり方を教えたら前に進むかというと、そういうわけでもないというか。


実際には、自分が何を研究したいのかがよくわからない、見いだせない、ということがあるのかなと。でも、研究を始める前の段階から「これ」っていうのは、どんなに優秀な人でもまずありえないと思うんですね。



でも、研究をしようとして、少しずつ着手しているうちに、だんだん「あー、これかな」というのが見えてくる。

逆に、「これじゃなかった」がわかるというパターンもあります。


で、そういうものがわかってくる過程というのは、研究が進む過程でも在るし、同時に、自分自身が何者かが分かる過程でもあるのかなと感じています。


オープンゼミを通して

宇田川)オープンゼミの話に戻すと、その意味で、社会人の人が参加して一緒に議論をする機会というのは、緊張もすると思うけれど、学生にとっては頑張るきっかけになるのかなと。 


最初は僕が提案して、ゼミ生も「まあやってみます」というのが数年前だったんだけれど、最近は全然僕はやるもやらないも何も言っていないけれど、ゼミ生が「やろう」という感じですね。

ゼミ生の観点から見ると、今の日本の就職の制度からすると、4年の最初の頃に就活をして、ということになるけれど、全然、それまで親以外の社会人にふれる機会って無いんですよね、普通にしていると。


その意味で、「社会人って一体何者なのか?なんかすごい人達なんじゃないか?」というよくわからない思いこみから、まず社会人といってもいろいろな人がいる、ということがわかる、という意義もあるのではないかなと思ったりもします。


また、最初は社会人にとっての意義ってなんだろう?というのは手探りだったんだけれど、毎回参加してくれる方が少なからずいて、そういう方々から話を伺うと、

「学生の知的探求への思いを実感できるのが楽しい」

「研究っていうものが何なのかわかって刺激になる」

「ものの考え方、考えの深め方がわかる」

とか、そういう感想をもらうんですね。


これは発見でもあり、また、考えてみると卒業生がゼミに参加してくれたりするときの感想にも近いものがあって、「あー、最近頭使ってなかったなあ」みたいな思いを感じるのかもしれません。

実際は頭を普段使っていないわけではなくて、別な頭を使っているのだと思うわけですが、日頃とは違うところを使うことで、仕事にとってもプラスになることがあるのかもしれませんね。

あ、もっと研究をしたくなった方は、是非、埼玉大学経済経営系大学院へどうぞ!


ーーーーーーしっかり最後宣伝までされてる(笑)

そうですね、確かに仰るとおりで、このオープンゼミまでの過程を通して、僕自身、なんでこれを調べたいんだろう、これになんの意味があるんだろう・・・なんてことをずっと考えてるんですよね。そういった機会になっていることがすごい僕にとってはプラスですね。

また、僕個人的には、学生と社会人という、何故かすごい隔たりを持った分断を感じることも多々あって、互いにもっと共創していい場があってもいいのかな、と思っています。そういった意味でオープンゼミはその第一歩なのではないかと思います。


抽象と具体の狭間を考える

ーーーーーー次に、今回の研究発表の背景をお伺いしてもよろしいでしょうか?実際、ゼミ生としても先生の研究発表、たいへん楽しみにしているのですが・・・(笑)

宇田川)活動報告に近いので、最近取り組んでいることに対する思いとか、ぼんやり思っていること、みたいなことでいいかな?

自分は元々、経営戦略論の研究者なのですが、どうして「対話」とか「ナラティヴ」といった一見すると経営戦略とは遠い領域まで踏み込んできたのか、ということについて自分なりに一度ちゃんと形にしたいと思っています。


テーマは、企業変革とイノベーションの推進、それとナラティヴの意義です。


僕が大学生の頃は、1990年代の終わりで、卒業したのが2000年でした。
この頃は、まだ1980年代までの日本的経営論の名残りが残っていて、日本の社会でもよく「政治は三流、企業は一流」という言葉があったくらいなんですね。ゼミ生たちはもちろん生まれていないので知らないと思いますが、1980年代は日本の企業社会が世界で最もイノベーティブな企業として注目されていたのです。「いつこの平成不況を脱するか」というテーマの本が多かったなあと。


ところが、大学院に入って研究をしているうちに、どうもこれは不況じゃないし、長期的な課題として「構造的な問題」だという言葉で言われていたけれど、そこで想定されていたレベルを超えて、相当やばいぞ、という雰囲気になってきた

どんどん日本経済に閉塞感と悲壮感が満ちてきたのが、日本企業のバブルの不良債権処理が一段落した2004年くらいだったように思います。
ずっと改革をしているし、今も日夜そのことに取り組んでいる方々がいます。ただまだその実感を伴うところまでは成果が出ていないのが実情ですよね。


僕自身の研究の動機は、その意味で、この閉塞感・悲壮感の中で、どのようにそれでも高いパフォーマンスを企業経営として持続可能にすることができるか、そのための抽象的な理論的・思想的バックボーンに裏打合された、具体的な方策を考えていくことにあります。この思想に裏打ちされつつも具体的に、というところが自分の目指すところなんです。だからナラティヴなんですが、まあ、その話は別な機会に。

宇田川先生のインタビューの続きはまた明日です!お楽しみに!!

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(注… 過去ブログのため、下記第二回にリンクを差し替えてあります🙇‍♂️)


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