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落とし、落とされ、キレ、キレられ 〜映画『オッペンハイマー』を観た〜

 私は激怒した。
とまで言ってしまうと嘘になるが、非常に不愉快だったのは確かだ。映画『オッペンハイマー』を観た直後、私はそう感じた。事前に広島と長崎に原爆を投下する描写はないと聞いていたので完全に油断していた。本来なら幕之内一歩みたいに心のピーカブースタイルで挑むべきところを完全にノーガードで呆けていた。いざ観てみたら、めちゃくちゃ原爆の描写があるではないか。勝手にそこもフワッと描かれてるのかと思っていたぞ。結果、いとも簡単に気が動転しまくってしまった。

 日本のどこに原爆投下するかを決める会議や原爆実験成功のシーンなんかは直視し難いし、沸々と湧いてくる怒りで何度スクリーンに中指を立てそうになったことか。世間の映画評論家って、これを何度も観てよく冷静に分析とか出来るよね。本当に凄い。これは皮肉ではなく、その理性的な姿勢をマジで尊敬する。私なんて今すぐにでも応援上映ならぬブーイング上映を開催してくれと思ってしまった。そうしたら原爆投下の成功を祝ってるシーンに思いっきり大声でブーブー言ってやれるのに!という、自分の剥き出しな負の感情に我ながらやや引いてしまうほどだ。

 この映画は全体の構成として原爆実験の成功とオッペンハイマーがアメリカ国内でハブられ、のちに名誉回復することが山場となっているのだが、ちょっと待って欲しい。私の中では原爆の実験で映画が終わってもいいくらいなんだが。そもそも原爆と名誉うんぬんって全く釣り合ってなくないか?なので後半パートは正直どうだっていいというか、オッペンハイマーが不利な聴聞会に出席し続けるヒロイックな面にも私の心は荒涼としていた。受難を受け続けるというのはキリスト的であり、不利な裁判で弁護をし続ける『アラバマ物語』のグレゴリー・ペックを思い出しもした。そういえば、あの映画のラストも弁護士である主人公が司法を放棄して私刑を暗に認めてしまうラストが胸糞悪かったな。

『アラバマ物語』 (1962年)

 あと、原爆投下の祝賀会で歓声を上げる人々が光に包まれて消えていくシーンについても、あれを描くなら人々が消えた時に彼らが座っていた椅子に黒い人型のシミが付いてなきゃダメだろ!なんで綺麗に消えちゃうんだよ。ここはオッペンハイマーの原爆被害に対する想像力のなさを表現してもいるわけだけど、あれでは彼の心の中に抜けない棘があるようには見えない。まるで白昼夢かのように見える。

 怒りにまかせていろいろと書き殴ってきたが、実際にこの映画が原爆に対して全くの不誠実なのかといえば、正直言ってそうではないと思う。後半パートではオッペンハイマーがあまりの原爆被害の悲惨さに写真スライドを直視出来なくなる場面があるし、聴聞会では原爆投下前の被害予測がいかに少なく見積もられていたかについても言及されている。なにより水爆の開発には一貫して反対の立場をとっていた。なので、原爆を開発してた時のオッペンハイマーは「おれってまるでプレメテウスじゃん。我は破壊者なり。なんつってw」とか言っちゃう激イタ人間だったのだが、段々とそのヤバさに気づいていく過程は描かれているわけである。

 ここで別の映画を1本引っぱり出したい。それは2013年に公開された宮崎駿監督の『風立ちぬ』である。この映画は零式艦上戦闘機、つまりはゼロ戦を開発した堀越二郎を主人公とした映画だ。この映画では主人公が殺人兵器を開発したことへの道徳的葛藤が描かれていたのかを考えてみたい。

 まず前提として宮崎駿という人は戦争を心底恐れ憎んでいる。自身が幼き頃に空襲を体験しており、その残酷さへの恐怖は深く心に沁みついている。しかし、それと同時にミリタリーが大好きであり、兵器の美しさに心を奪われてしまった人物でもある。宮崎駿は常にこの矛盾に引き裂かれており、『風立ちぬ』はその葛藤と向き合う絶好の機会であったはずだ。

『風立ちぬ』(2013年)

 しかし、実際には美の追求、メロドラマ、そして母性への依存に物語は回収されてしまった。結局、兵器開発の葛藤についてはきちんと描かれなかった。この点については公開当初から日本国内でも多くの指摘がなされてきたが、ここでは『オッペンハイマー』を観る外国人としての私の視点と対比させる為にも英国の「タイムズ」誌に掲載された記事を紹介したい。

宮崎駿の最後の作品となった「風立ちぬ」は、「千と千尋の神隠し」や「ハウルの動く城」といった同監督の名作を愛してきた人々にとっては、当惑またはもどかしさを感じさせる作品である。細部まで豊かに描き込まれたその絵は相変わらずの美しさだが、第二次大戦における戦闘機の設計者の伝記という主題は、彼のトレードマークとなっている理想主義的な空想には不向きなのだ。ゼロ戦とは、結局のところ神風特攻隊が使用した軍機である。主人公の二郎を、戦争の現実から浮遊させて描くのは不誠実だ。

2014年5月9日 英国「タイムズ」誌

 誤解されたくないのだが、私はこの記事を利用して『風立ちぬ』を貶したいわけではない。それほど加害性と向き合うことは困難で、しかもエンターテイメントとして成り立たせることはさらに難しいのだ。例えば、私が今ここに自分の加害性に関わることを包み隠さず書き出しなさいと言われたら普通に無理だし丁重にお断りする。そう考えると、やはり『オッペンハイマー』には加害性に対する誠実さがあるのだと言えよう。少なくとも美や理論を追求することと、それが負の方向へ利用される野蛮さは切り離すべきだ、という安易さには着地していない。本当にそれは加害性とそれに伴う責任はないと言えるのか?というところまで掘り下げられている。

 前半はブチギレてたくせに後半は急に擁護している、なんだか支離滅裂な文章で大変申し訳ない。ただ、これが私の『オッペンハイマー』を観た素直な感想なのだ。つまりは私の思考も引き裂かれており、宙ぶらりんなのである。

 そういえば、劇中でオッペンハイマーが「揺れていたい」と言っていた。そう考えると、実はこの映画はずっと揺れているのだ。単純に時系列が入り混じっているだけでなく、主体と客体、事実とフィクション、成功と罪悪、栄光と挫折などの様々な要素が定着することを頑なに拒んでいる。上映中にほとんどの場面で音楽が鳴り続けているのも、音波によって空気が振動して揺れているのだと言える。ラストシーンについても、映画を通して観た時には「実は〜でした」というように見えるが、このシーンはオッペンハイマーの主観パートである。つまり、このオチ自体が物語化されたもので、観客はあたかもそれを真実として受け止めてしまうという皮肉が効いているのだ。そして、そもそも映画自体が結局のところフィクションなのだというところまで射程は広がっていく。

 この映画を観てから見事に宙ぶらりんになってしまった私ではあるが、現実問題としていつまでも揺れてばかりはいられない。誰にだって3時10分は訪れるのだ。それぐらい現実には未解決な課題が山積みである。そして、私たちはそれらの課題に対して実はすでに決断を繰り返してもいる。それならば、どうせだったら間違った決断はしたくないし、もし間違えてもすぐに修正が出来るようになっていたい。言い換えれば決断をしながらも同時に揺れ続けていたいということだ。と、簡単に書いちゃったけど、実際はめちゃくちゃ難しい。

 でもまぁ、とりあえず今日のところは寝るという決断をすることにします。

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