さほど、地域密着型の人間ではないけれど。
3月末のこと。
かねてよりイメージにあった、夫の生まれ故郷である釧路に移住する、ということを遂行した。
彼と、私と、子たち2人の合計4人。義父が健在のため、なるべく近くに住むことにした。義母を亡くして、やることがなく、ぼーっと過ごしがちの義父に、少しでも刺激になれば、そして少しでも血縁というバックボーンのある土地に住まうことで、子育ちの安心感を得たい…そんな氣持ちで決めたことだった。
移住前、今年の東京はやはりすごく暖かくて。2月には梅の花、3月には、早咲きの河津桜。服装もコートもいらないくらいになったところで、こちらにやってきた。
最後の3ヶ月は本当によく泣いた。
なにしろ、7年間も住んだ街である。
7年という数字は、私の人生史上二番目に長い住まいとなる。
大体が1-2年で転居、転職、移住の繰り返しだったからだ。
京都から国分寺に引っ越した当初は、知り合いもいなく、頼りになるはずの夫には交友関係はなく、誰にも紹介してもらえず(結婚式さえ、結婚写真さえ撮らせてもらなかった。これは怨念である…)何の広がりも、自分1人で作らなくてはならなかった。
そんな中、初めての出産、育児である。
そりゃぁプレッシャーも大きくなり、うみたての体のホルモンバランスの崩れから腱鞘炎になり…藁にも縋る思いで参加したスピリチュアルな産後ヨガクラスに飛び込んだことから、あっと言う間にご縁が広がった。
あの日、あの時、自分の腱鞘炎が辛いのに、可愛らしい新妻でありたいと思って、夫の肩を揉み、それで発狂して、「私が私のために私の体を大切にする!」と決意して、ヨガクラスに飛び込んで本当に正解だったと思う。
だからこそ、今年の1~3月は、涙が出るほどに思い出深く、感慨深く、離れ難い場所となったのだから。
人との出会い。それが全ての幸福の源だ。私の場合は。
もちろん人と出会い、関わり、別れ、また出会い…その循環の中で、あらぬことに巻き込まれるような場面もあるので、基本的には、天と繋がり、自分を生きることに集中したほうが良いとは思っている。
でも、そんなふうに自分を生きている者同士として、出会い、関わり、さまざまな経験を共に生み出せることは、生きると言う活動の言わばハイライト的な要素だと思っている。
最高に、しんどくて
最高に、寂しくて
最高に、冒険に満ちて
最高に、心震えた7年間。
それが、私にとっての国分寺での時間。
母として第一歩を歩み始め、紆余曲折の末、第二子も産み落とし、楽な子育てまっしぐらになった、貴重な、貴重な、ご自愛文化発祥の地。
それが、私にとっての、国分寺…
いや、多摩地域といった方が正しいかもしれない。
国分寺だけじゃなくて、国立も、ご縁のある土地だったから。
今、この釧路という街にきて、
涼しさに包まれて、大量の酸素に癒されて。
ここから、また、私の、私たちの物語が、静かに始まろうとしている。
国分寺での経験や、出会いや、別れ、全ての感覚感情を糧にして
国分寺だけじゃないな。
福島やら、京都やら、中南米やら、東京の他の土地やら、オセアニアやら。
全ての時間、全ての人との出会いや別れ、関わりが、全部、全部、糧になっていく。
ここにどんな花が咲いても、それは、必ず、美しい。
美しくて、誰かの役に立てて、ずっと応用、活用できるエッセンスに満ちているもの。生きる智慧、叡智。
私だから咲かせられるもの。
私だから、実らせることができるもの。
唯一無二の美しさ、実体の存在感。それを祝福しよう。
思い切り。手放しで。心の奥底から、それを表現し、味わおう。
私を咲き誇っていっていい。
どんな土地にいても、誰と一緒にいても、何をしていても。
わたしは、わたし。
唯一無二の、輝き。
こんな氣持ちになれたわたしに、おめでとう。
ここまで生きてこれた、自分自身に、ありがとう。
支えてきてくれた、全ての存在に、ありがとう。
あの時、受け取れなかったことも
あの時、ゆるせなかったことも、
きっと、これからの時間の中で、ゆっくりと受け取り、そしてゆるしていくことになるだろう。
それを一緒に解消していく、子たちの存在に救われている。
一緒に見守ってくれている、夫の存在に救われている。
共に働く人がいるよろこびもある。
遠くとも、心つながる友がいることも嬉しくありがたく
また、近くで、新たに心通わせられる仲間に巡り合えている奇跡が有難い。
そんな氣持ちでいることを、ふと記したくなった。
久しぶりのnote.