移住を決断するまで

連続で書くつもりでしたが、少し日が経ってしまいました。今回は移住や自給自足を考えるようになったきっかけを書いていこうと思います。

ブログのタイトルの通り僕は自給自足に憧れて2019年7月に匝瑳(そうさ)市に移住しました。自給自足をするには田舎じゃないと難しいですからね。場所はいろいろと悩みましたが、移住を考え始めたのは何年も前のことです。自分たちで食べるお米や野菜、お肉を自分で調達したり、木や竹を管理しながら燃料に変えたり、電気も自分の家で発電したいと思うようになりました。現時点では遠く及びませんが、完全じゃなくてもいいので少しずつ自給率を上げていきたいと考えています。

そもそもなぜそんなことを考えるようになったのか…

僕は新潟の田舎で育ち、高校を卒業してすぐに東京に出てきました。街には多種多様なお店が溢れ、電車にちょっと乗ればテレビや雑誌で紹介されたおしゃれなお店、面白そうなイベントに行ける。田んぼが広がる田舎で育った僕には楽しくてしょうがありません。刺激のあるシティライフを満喫していました。

きっかけは2011年に起きた東日本大震災、そして福島第一原発の事故。

地震が起きた瞬間、震源地から遠く離れた東京でさえも今まで経験したことのないほどの大きな揺れがありました。自宅にいた僕は、食器が次々と割れ、ぐちゃぐちゃに散らかっていく部屋で、今にも倒れてきそうな家具の下敷きにならないように必死に押さえながら怯えていました。建物が倒壊するほどの揺れのなか「もうだめかも…」と死を覚悟しました。

結局、命を落とすことなく、怪我をすることもなかったわけですが、それは偶然そうなっただけのこと。これ以降、生きていることは当たり前じゃない、誰だっていつ死んでもおかしくないんだ、と思うようになりました。

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福島第一原発事故は今も収束せず、早くてもあと数十年…。

大きな地震や津波もそうですが、それに加えて福島第一原発の事故は人生の価値観を変えるには十分過ぎるほど衝撃的なできごとでした。それまでは電気がどこでどう作られているかなんて考えもしません。

情報を集めて知っていくたびに、「都会の便利な生活のために、周辺の住民や環境にどれだけの負荷を押しつけてきたのだろう」と反省の日々になりました。電力会社や国のせいではなく、無関心だった自分たちのせいなんです。

食料に関しても同じです。物流が止まると、街からは日に日に食料品が消えていき、不安は募るばかり。生きるために必要な食べるものがなくなり、お金があっても買えるものがない、という都会の脆さを痛感したのでした。

時間がかかりましたが、街はだんだんと日常に戻っていきました。ですが、以前のようにスーパーに食品が並んでいても、電気を使っても、”どこでどう作られているのか”が気になってしまいます。食品に関しては、農薬や添加物のこと、工場製品のように扱われ薬づけの家畜、遺伝子組み換えを扱う多国籍企業による種子や食の支配。電気に関しては、原子力発電の行き場のない核のゴミや海水温上昇による生態系破壊、そもそも莫大なコストがかかり、危険なものであること。他にも身の回りのあらゆることが実は遠くの誰かを苦しめていたり、環境汚染を繰り返しながら作られていたことを知りました。店頭の貨幣交換では見えづらかった現代の消費システムの負の面が見えてきて、そのなかにいる自分に途方もない罪悪感を感じました。

このシステムを変えるにはどうしたらいいのだろう。買い物をする時やお金を使う時はその背景を知り、ちゃんと選択することも大事なことの1つです。

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福島のオーガニックコットンプロジェクトのもの。綿の国内自給率1%未満の日本では希少。

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原発に頼らない産業をつくっている祝島の特産物。新たな原発建設は必要ないと体現してくれています
ただ、僕は暮らしそのものを変えたいと感じたのです。自分で作れば、安心安全なものがお金をあまりかけずに手に入る。環境への負荷に責任が持てるので、最小に抑えることができる。自給自足は、人間のためだけでなく、動物や地球のため、そして次の世代にも貴重な資源を残すための平和活動なんだ、という考えにたどり着きました。

そして、限りある命ですから、今やらなければ意味がない。そんな思いで田舎への移住を決断したのです。

とはいえ、実際は移住するまでに時間がかかってしまったんですけどね。話の続きはまた次回に。楽しい田舎暮らしの話をすると言っておきながら、またかたい話をしてしまいました。次回もまだ続きそうです。今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

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