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うちの場合は。 ①フジ三太郎と父

父は一般的に見てかなり変わっている性格だと思う。

友達と呼べる人も少ないと思う。と言うかいないかもしれない。たぶん本人は意識していないが確立されたマイワールドがあって、そこは不可侵で自己愛の世界。他を寄せ付けないとかそういうかっこよさではなくて、社会の一般的な感覚の人から見ると「あ、この人とは話が噛み合わない」とすぐに一歩引かれてしまうタイプの人間である。なんというか、ナチュラルに自分を肯定する力を持っており、それが現代においてはとてもややこしい感じがするのだ。でもブレることがないので幸せな人だなといつも思う。

時代と生い立ちがそういう性格にしたのではないかと思う。存在自体が稀な終戦の2ヶ月前に生まれ、待望の一家の長男としてチヤホヤされながら育った。わがままを言えばなんでも聞いてもらえ、うまくいかないことがあったら癇癪を起こしたが、祖父は仕事で忙しくいつも不在で、祖母と叔母と伯母と女中さんの女ばかりの家庭で困り者としてみんなから距離を取られながらある意味放置されて育てられた。独特のマイワールドが出来上がるわけである。

中学や高校の頃の自意識のかたまりだった私はそんな父が疎ましく、理解できず、本当に苦手だった。ようやく父のことを一人の人間として身近に感じるようになったのは、私が社会人になってからだ。

父の書斎には本の中に混じって、あるひとつの漫画があった。「フジ三太郎」である。最近”ハンバートハンバート”のアルバムのジャケットになっているのを見て「なんて粋な!」と思うと同時に、その漫画を読んでいた頃がフラッシュバックした。小学生の時だ。リビングのソファに寝っ転がりながら、私はそのサラリーマン漫画のコンセプトをよく理解しないまま(父に「意味わかるんかぁ?」とも言われながら)登場する魅力的なキャラクターやシニカルなオチにのめり込んだのだった。

以前、母が「お父さんは仕事が嫌いなのよ」と言っていたことがある。「くそーっと心の中で思いながら頭を下げている」と父がぼやいていたこともあったらしい。父の仕事嫌いが兄の定職につかない習性につながっていると母は今でも本気で思っているようだが、大して影響はなかったと思う。息子は親父の背中など見ていない。フジ三太郎の世界もそう言っている気がする。

今じっくり読み返したら、私も当時の父と同じようにサラリーマンの悲喜こもごもを4コマで面白おかしく表現しているなんとも味わい深いこの漫画の本質を、身をもって理解できるのかもしれない。もしくは私が今の仕事を嫌いではないのは、フジ三太郎と同じようなちょっと愉快でちょっとブラックな毎日を過ごせているおかげかもしれない。

時間が何年も経ってからストンと落ちたようにわかることがこの世にはまだあるのだなぁと思った出来事だった。まして一生つきまとう「家族(うち)」というものを通して。



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