散歩が苦手なもので

私は散歩が苦手である。
どう苦手なのか。

まず行き先、目的がない時点で不安になる。
目的がないのでやる気が湧かないし、腰が非常に重い。
このことから、自分は「目的を達成するまでの過程、その道のりにあまり興味がな区、結果を追い求めるタイプ」と自己診断することができよう。

次に、どうやら私は立ち止まることが苦手らしい。
ふらっとお店に入る、立ち読みをする、案内板を見る、などの立ち止まる行為が非常に苦手、そもそも立ち止まるという行為が頭にないらしい。
これは意識的に散歩をする中で明らかになった特性である。
前述にもつながるが、目的もないのに(欲しいものもないのに)店に立ち寄る意味が見出せないのだ。

最後に、これが一番クリティカルな散歩苦手意識いつながる特性だと思うのだが、新しい出会い・お店に入る勇気がない、ということ。
行ってみたいお店などはマークしているし、機会があれば行きたいとは思っているにも関わらずいざその店の前に立つと入店する気が失せてしまう。
先客がいれば尚更のことで、私のような新参者が入店してどのようなコミニュケーションが取れようか。
きっと店員さんとぎこちない会話しかできないに違いない。そんな思いをさせるくらいならここはスルーしよう。
といったネガティブ純度120%思考が瞬時に働き、その場から立ち去ってしまったことは数知れず。

結局は自意識の問題なのである。
別に私のような一市民がどんな行動を取ろうが周囲への影響などほぼ無いに等しいにも関わらず、そのような周りへの意識・周りからの目線を気にしてしまう。
ここで思い出されるのが、どこで得た言葉かは忘れたが「君が思っているより、世界は君に対して無関心だ」という言葉である。
何かの受け売りかも知れないし、自分で思ったただの感想かも知れない。
それでもたまに思い出す言葉だから、自分の生き方を構成する重要なメッセージなのだろう。

そう。
誰も君を気にしてなんかいない。
それは普段の生活の中での話。
なにかピンチだったり助けが必要な時は一転して、「君が思っているより、世界は君を案じている」という言葉が思い出されるだろう。

最終、全ての事象は二面性を持っていて、その裏表を都合の良いようにひっくり返すことができる大人が生き延びるんだろうし、私はそういうところを目指している。
もしかしたら望まなくても自然とそういうものに集約していくのかもしれない。

せめて自分にとって都合のいい人間になりたい。
苦手な散歩をしながらそういうことを考えた。

案外散歩も悪くない、かも。

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