生活保護などの社会保障が必要なワケを考える

※全然学術的な根拠を持って話してるわけではなく、ただの経験則と、色々聞きかじったことから、自分の考えを述べているだけです。ちょっとは正しい可能性もあるけれど、めちゃくちゃ間違ってるかもしれないので、そのへんはご了承ください。


何かと話題の社会保障。
色々種類はありますが、基本的には「自力でどうにかできない人を助けるための制度」だと思っています。

たとえば健康保険。医療費を全額自費で払おうと思ったら、気軽に風邪ごときで病院に行くなんてできません。それどころか、もっと重篤な病気にかかったとき、為す術もなく死を待つしかなくなるでしょう。
本来ならかなりのお金持ちじゃないと行けない病院に庶民が行けるのは、健康保険という社会保障があるからです。有難いですね。
そもそも一切病気にかからなければそんな制度は要らないのですが、そんな人はごく稀です。本当に昔はそういう超健康体の人ばかりだったかもしれませんが、今こうして人口を増やして繁栄できているのは、多くの人が病気に医療で対処できるようになったからだと思います。直接的に言うなら、死亡率が下がったということです。

社会保障を「自力でどうにかできない人を助けるための制度」だと考えた場合、その最たる例は生活保護でしょう。
何らかの事情で、持てる力や資産を最大限活用しても最低限度の生活を送るための費用が得られない場合、足りない分を支給してくれる制度です。

「生活扶助」
→食費や光熱費、被服費など
「住宅扶助」→家賃
「教育扶助」
→義務教育に必要な学用品などの費用
「医療扶助」
「介護扶助」
「出産扶助」
「生業扶助」
→仕事に必要な技能の習得にかかる費用
「葬祭扶助」

これらを、必要に応じて支給してくれます。
出産や葬儀の費用まで出してくれるのは知りませんでした。これらも人間らしい最低限の営みとして含まれているということなんですね。

では、この「最低限」のラインはどのように決まるのでしょうか。
実際には、物価や生計費の変動を見て改定されながら決められていますが、結局これは、「人の意志」によってしか決まらないのではないかと思います。

要は、どういった暮らしを「最低限度」と考えるかは、その時その時の倫理観でしかないということです。
とにかく命を繋ぐことだけを最低限とするか、月に1冊くらいは新刊の本を買うことができる暮らしを最低限とするかは、人々がどう考えるかにしか依存しません。
何しろ憲法には、「健康で文化的な最低限度の生活」としか書いてないのですから。

最低ラインを上げるも下げるも考え方次第です。今はこの水準だけど、「低所得者」と言われている層が、保護基準に入るまでラインを上げることも、別に不可能ではないのです。


ところで、どうして生活保護などの社会保障を使ってまで、最底辺の人々を守らないといけないのでしょう。

結局これも、「人の意志による」としか言えないとは思うのですが、「人類の繁栄」という観点から見た場合は、やはり守る必要があるのだと思います。
70億人も増やしといて今更何を繁栄だというのもありますが、人間も動物である以上、基本的に種の方向性としては「繁栄」を目指すほか無いのだと思います。あえて「衰退」を選ぶことはないということです(でもこれも倫理観でしかない)。

ちなみに、私の考える「繁栄」は、徒らに人口を増やすということではありません。野良犬のような暮らしをする人を増やしたって仕方ないのです。
人口増加によって、更なる文化的な発展を遂げることまで含めての「繁栄」だと思います。逆に言えば、文化的な発展を遂げるために、人口増加が必要という考えです。
そしてその文化的発展が、更なる人口増加を助けます。

自然の世界では、弱い者は命を落としがちです。
それは人間も変わりませんが、人類は弱者の死亡率を下げることで、集団の規模を拡大していきました。

集団の規模を拡大、すなわち数を増やすことは、最終的に種の保存に役立ちます。
マンボウなんかは数億個もの卵を産みますが、そのうち成魚になれるのはほんの数匹だと言います。
逆に言えば、簡単に食われてしまうような弱い卵や稚魚でも、数億もあれば少しは生き残れるのです。

多様性という意味でも、数の確保は役立ちます。
もし、地球上のほとんどの人が死んでしまうような感染症が世界中に蔓延したとしても、奇跡的に特定の遺伝子を持つ人々だけその病気への耐性を持っていたら、人間という種の保存には成功するわけです。

いずれにしても極端な例ではありますが、人類の誕生から今までに至る時間を考えれば、数を増やす繁栄によってここまで生き延びれたことを否定するのは難しいでしょう。

こういう倫理観で考えると、やはり弱者は守るべきなのです。人間という種の保存を考えた場合、弱者を見殺しにするのは得策とは言えません。他の動物に取って食われたわけでもないのに、飢えや病気で死ぬことを良しとしてしまうのは、やはり良くないと思うのです。

でも、弱者を守るためには、必ず誰かの助けが必要になります。
能力の高い者が、弱い者の生活に協力しなければなりません。

今の社会では、能力の高さをお金という形で表現しています。

優秀な人間は、その力で多くのお金を集めることができます。
持っているお金が多いと、人々の生み出した価値を自分のものにすることができます。モノやサービスを沢山買えるというわけです。
もちろん、優秀な人間はその能力で社会に大きく貢献していますので、当然の報いです。
沢山の価値を享受し、さらにそこから価値を生み出すこともあるでしょう。

ところが、弱者はお金を集める力が弱いか、ほとんどありません。社会で生み出された価値を、自力で十分に享受できないのです。

しかし、人類は弱者を守ることを選びました。弱者も価値を享受し、さらに価値の創造を可能にするためにも、お金という形で協力しています。それが税金であり、社会保障です。

優秀な人間は、その能力を自分のためだけに使うのではなく、社会全体のためになるよう使わなくてはならないと思います。
そしてそれは優秀な人に限らず、基本的に全ての人がです。
自分の持てる能力を、自分のために使うのはもちろん、家族を始めとした社会の中で役立てるのが、人類が繁栄のために歩んできた道だと思います。
ただ、能力には個人差があるので、その貢献度には差が生じます。世の中そんなに優秀な人ばかりではありません。
それを体現したのが、税金の累進性ではないのでしょうか。


ところで、世の中から弱者を完全に無くすことはできるのでしょうか。
逆に、全ての人々が優秀な人間になることはできるのでしょうか。

私の考えでは、否です。

おそらくですが、人間の社会では、優秀な者・平凡な者・能力の低い者の割合は、人口に関わらずほぼ一定なのではないかと思います。
たとえ優秀な者のみを残しても、その中でまた分かれてしまうと思うのです。

これは完全に経験則ですが。
たとえば、高校は成績によって学校が分かれますが、偏差値の高い学校の中でも、大抵は層が分かれてしまいます。元々いた中学ではトップクラスの成績だった子でも、高校で落ちぶれてしまうのはよくあることです。

それから私の話だと、実家だと全然家事をしないけども、彼氏の家だとほとんど全ての家事をします。家事の内容に大差はないはずなのに、です。

数人規模でも数百人規模でも似たようなことが起こるなら、億人規模でもきっと起こるだろう、ということです。

以前、生活保護でパチンコに行っている人がいるということで、「税金の無駄だ」と批判が集まったことがありました。
確かに良いことだとは思えませんが、こういう人はきっと一定の比率で現れるでしょう。弱者層の中で見た劣等者として、彼らは存在してしまうのだと思います。

しかし、必ずしもこういった人の存在比率が高いわけではありません。それ以上に、きちんと良識があるにも関わらず、支援を受けざるを得ない人々の方が多いはずです。
ゆえに、生活保護でパチンコを打つという「無駄」を排するために、必要な人への支援を絞るのは、賢い選択ではありません。
言い方を変えれば、必要な人への支援をすることによって得られる社会的な恩恵に対する「コスト」として、こういった「無駄」の発生も容認しなければならないのです。
これはもう確率的なものとして、諦めるしかありません。投資におけるリスクのようなものです。

無駄はない方がいいです。しかし、全ての無駄を排するのは、何事においても難しいことを理解しなければなりません。
「無駄は完全に排することができる」という妄想が、生活保護受給者バッシングに繋がっている一面もあると思います。


最近色んなところで「自己責任」という言葉を聞きます。あなたの幸も不幸も、全てあなたの責任。
私も、自分自身に対して使ったことがあります。

しかし、これは非常に危険な言説であると思います。ここまで読んだなら、その理由もわかるでしょう。

結局これは、さっきまで言うところの「優秀な人」しか生存を認めないということになるのです。
ほとんどの人は───優秀な人でさえ───自分の力のみで生きていくことはできません。食べ物ひとつ取って考えてみればわかることです。食料品店が無くなったら、あなたは生活できますか?
我々は、必ず誰かに支えられて生きています。もちろん、支えている度合いと、支えられている度合いに差はあるかもしれません。しかしそれは個人の能力によって決まるところであり、誰が良い・悪いという話ではないのです。

そして、仮に優秀な人だけが生き残ったとしても、きっとまたその中で格差が生まれます。不毛なサイクルを繰り返したら、人口を減らし、人類は衰退に向かうでしょう。
現に、日本はそのサイクルの中にあります。長期のデフレ、経済成長率の鈍化、実質賃金の低下、そして少子化などといった形で、それは現れています。

私たちは、利己的になり過ぎました。
もちろん、ミクロ的に見たら多少の利己心は必要ですが、社会全体、人類全体を考えた場合、その利己主義は全体に不利益をもたらします。

でも、少なくとも私たち庶民が利己的になったのは、私たちのせいではないと思います。自分たちに余裕が無くなったからこそ、少ないパイを取り合うように利己心を発揮せざるを得ない状況になったのではないでしょうか。

では、私たちから余裕を奪ったのは誰か。自己責任論が蔓延る社会を作ったのは誰か。

私は、多くのお金を集め過ぎた者たち───集め過ぎたにも関わらず、それを社会に還元することを放棄した者たち───だと考えます。

もちろん、彼らの能力は評価されるべきです。資産という形で、ある程度は手元に残してあげるべきでしょう。
しかし、「金在るところ金在り」の資本主義では、彼らは必ず過剰にお金を集めてしまいます。
トマ・ピケティの著書「21世紀の資本」で、それは証明されました。
(経済成長のスピードより、資本家がお金を集めるスピードの方が必ず速い)


多くのお金を集められるほど優秀な人間であるならば、もっと社会全体の利益にも目を配っていただきたいと願うばかりです。

あなたたちが儲けるためにも、我々庶民は必要なんですから。


※「弱者」と言っていますが、これは別に生活保護を必要とするほどの貧困層や、支援の必要な障害者・高齢者に限りません。ぶっちゃけ今の日本なら、所得が世代別中央値以下の世帯は十分「弱者」だと思います。

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大学中退病弱フリーター。病気で中途半端な障害を負って、身体という資本をほぼ失いました。あるのは思考大好きな頭と、ちょっと硬くなった手。あなたの支援は、私の存在価値の裏付けになります。