no活?

何も知らずに見たら、何でもかんでも「NO」と言いまくる活動のように見える。

あれか、2,3歳くらいのイヤイヤ期のことか。
人はあそこで一生分の「NO」を表明するように思うが、大人になってから、というか小学生になったあたりから、我々は他人に「NO」を表明することをしなくなってしまう。
迷惑をかけちゃうとか、仲間外れにされるとか、先生に怒られるとか、しょうもないけど切実な理由に阻まれ、我々の中の「NO」は萎縮し、心の底では「NO」とつぶやきながら、口先では「YES」と答える。
子どもの頃は誰もが持っていた主体性を、我々は「NO」と共に失ってしまうのかもしれない。

そんな、心の奥底に潜む「NO」に光を当て、あえて「NO」を表明する活動。それがno活。


………ではなく、no活というのはこの「noteを書く活動」のことだそうだ。

たまたまフラッと見に行ったところで、こんなのを見つけた。

なんと、 #no活 を付けて記事を書けば、抽選で800円、大賞1名に1万円くれるというのだ。

1万円といえば、私の家庭教師の月謝だ。1日2500円×4回 +交通費ちょっと
家庭教師は時給換算したときの割はいいが、結局1日にできる時間が少ないので、大して稼げない。仮に週5でやっていたとしても、月5万程度にしかならないのだ。

そんな1万円を、赤の他人が「お前の記事、サイコー!」と思ってくれれば、それだけで頂けてしまうのである。なんと美味しい話か。


だが思う。そんなキャンペーンというか、「no活」と銘打ってやらないと、noteってできないものなのか?と。

「noteを続けるには」みたいな話を公式からもされるが、正直私はそんなことを考えたこともなかった。
「続けるには」って、わしゃ書きたいから書いてるだけなんだが。何なら書こうと思ってるけど時間がなくて書けない下書きが8つとか溜まってるんだが。

Twitterでは「続けるには」なんてことを言う人は誰もいない。あれはそんな堅苦しいものではなく、書きたいことを自由に書けばいいところだ。そこには「続ける」などといった義務感は存在しない。

そうだな、noteを続けなきゃいけないとすれば、それはマガジンのせいだろう。あれは月額なので、お金を出したのに全然更新されないんじゃ、確かに読者は不満に思うかもしれない。

でも、マガジンをやっていない人はどうだろう? そこまで毎日更新するような「義務感」に囚われる必要は、果たしてあるのだろうか。

私は、こんなもん書きたいときに書きゃいいと思っている。創作をサラリーマンの仕事と一緒にしてはいけない。締め切りは、それがある人だけが守るべきものだ。創作者全員が守るものではない。

創作における締め切りの有用性というのは確かにあると思うが、かといって必要以上に縛られるのも不幸な話だ。人から「約束」という意味での対価を貰っているならともかく、自分の創作にそこまで足枷を付けることほどバカな話はないと思っている。


もっと気楽にやろうよ。
私は、あなたが心から「書きたい!」と思ったものを見たい。

そこで出されたものは排泄物という意味でウンコに等しいが、イイモノを食って出てきたウンコは、栄養も豊富に違いない。
私はそれを自分の畑に撒き、肥料にし、己の心を肥やすのだ。


江戸時代、殿様のウンコは肥料として高く売れたという。
上等なウンコが、私は欲しい。

大学中退病弱フリーター。病気で中途半端な障害を負って、身体という資本をほぼ失いました。あるのは思考大好きな頭と、ちょっと硬くなった手。あなたの支援は、私の存在価値の裏付けになります。