今演劇へ考えている事(①始めた頃のこと)

どうも、内田啓太です。正社員しながら役者してます。

簡単な自己紹介は序文にしました。誰やねんと思った方、そちらをお読み下さい。

前回までのあらすじ

たまたま親と演劇の話をした時に、自分が初めて作・演出した大学時代の作品が一番面白いと言われ、その後演出したものや、これはいいんじゃないかと思った出演作は良く分からんで片付けられた。面白いって何だろう、とかを改めて考える為、たまには昔の事も肯定しつつ自分の演劇観がどうなっていて、今後どうしたいのか、演劇に対し何が出来るのか考えようと思い立ちnoteを書き始めたのだった

今回は本編1回目。まだ演劇の事なぞろくに知らない、いや知ろうともしていない「始めて3年目くらいまで考えていた事、同時に一般人(両親)に今だに一番面白いと思われたものを創った頃の思考」を掘り起こそうかと思います。

両親に一番面白いと言われた「JUNAN~私のお父さん~」(詳細は序文参照)は、大学3年の頃、今から13年前に創った作品です。両親だけでなく、当時の反応もベタ誉めが多く、当時のDVDを観てもお客さんの反応がとても反応いいんだよなあと思います。確か千秋楽で100人入った回ではあるんだけど。

入学した直後から2年間みっちり役者をやらせてもらったくせに、割と演劇の特性とか、そういうのを深く考えないでとにかくいいと思ったものを、少々過激にしてぶち込む!くらいのマインドで創ってました。

映画だろうが演劇だろうがアニメだろうが音楽だろうが絵画だろうがスポーツだろうが、いいものはいい!というマインドに、かなり意識してそうしていましたし、演劇も、わざと勉強もしていませんでした(これは後で後悔もするのだが)。それには幾つか理由があります。

① 元々WWEがやりたくて演劇を始めた

② 誰に向けてエンターテイメントを創ろうとしているのか、はっきりしていた

③ 雰囲気で抽象的な演劇にかなり否定的だった

1個ずつ説明していきます。

①は、要は演劇をやりたくて演劇を始めたのではないという事です。

大学に入った時、私はWWE(ワールド・レスリング・エンターテイメント)という、アメリカのスポーツエンターテイメントに憧れ、将来そういう事がやりたいと思っていました。

私、上智大学出身なんですけど、上智みたいなお嬢様感のある大学で、ミック・フォーリーというプロレスラーのパロディレスラー「ダッチ裕三」というレスラーをやってやろうと思ってました。

↑ミック・フォーリー(正確にはミック・フォーリーの3つの人格のうちの1つ、マンカインド)

精神倒錯者で、常にダッチワイフをリングサイドにも連れて自分の妻だと言い張り、時に凶器として使用済みダッチワイフの股間に相手のレスラーの顔を埋めて倒していく…というギミックまで考えていました。上智でね。くぅーええやんロケンロールやん。

でも、まあサクッと行くとプロレス研究会みたいな所は潰れてまして、ざっくりじゃあライブで見世物で、って演劇かな、って思って演劇サークルに入ったのです。かなり特異な入り口だと思います。

そんな入り口だからこそ、作家性とか演劇ならではとか知ったことでは無く、「面白けりゃいいんだろ面白けりゃ?」というマインドで長い事いたし、それは頭でっかちの演劇人と比較して(当時の感覚だよ!)強みになるかもなとも何となく感じていました。

②に関して。

で、そんな動機で演劇を始めた人間が誰に向けて演劇をやろうとしていたのか、誰に刺さるように演劇を創ったのか。少し過激な事を書きます。

「世の中の最大公約数バカ7割に刺さればいい」

すいません完全にコレでした。自分も含め、世の中、バカの方が圧倒的多数派なのである。メディアや情報に踊らされている事に気づかず、与えられたものを享受して、単純化されたものを好む。楽だから。世に受け入れられているエンターテイメントって良くも悪くもそうなってる。

100人のお客さん100人を面白いと思わせるのはキツい。でも、7割の人に刺さってしまえば上等な勝ちだろ、そこを意識し続ければいい。そして俺もバカだからバカの気持ちも分かるしそこは自信を持とう。

と。

当時、自分が面白いと思ったものはみんな面白いと思っているようだ(要はゴリゴリのミーハー)、という感覚に自信があったし、創作時の孤独だ辛いどうしようみたいな時も、その客観的事実に相当救われていました。

だから戯曲を書く時は、俺は元々大好きだけど、嫌いな人が殆どいない「バックトゥザフューチャー」の構成を研究したし、笑いはリチャードホール観まくったし、細かい事は分からなくても日本人なら遺伝子レベルで分かる「仮面ライダーとショッカーの闘い」のパロディだったし、舞台セットも具象。家。そして根っこに走るのは、誰もが絶対持ってる「家庭」という概念。笑いの要素もふんだんに入れ、そこには別役実作品みたいな想像の余地みたいなものは殆ど無く(そもそも当時そんなの知らない)、ラストはちょっとの感動。ドラマとしての成立も強く意識。そうして出来た作品は何も考えず見られる。情緒?それは分かりません。でも結局面白いでしょ?だって面白いものしか入れてないもん!

というノリでした。

③は、今でこそ不条理演劇や、心象表現に重きを置いた演劇に対する理解は全然あるし大好きですが、当時はそれを表面的な面白いつまらないの単純な判断基準しか持ち合わせてませんでした(それでいいのかもしれないけどそうもいかなくなった)。そして、大好きなんだけど!本当に好きなんだけど!という前提の元、先輩たちが、ただ頭でっかちなだけで、特別面白い芝居を創っているようにも見えませんでした。それっぽい事は言うけど、創ってんのこれじゃーん、みたいな。もっと無茶苦茶やれよ!シンプルに圧倒しろよ!と悶々としていました。そのエネルギーは遂に「おめえらに何も言わせねえ」になり、戯曲の質の追求だけでなく、音響・照明効果も凄まじい量になり、極めつけは、「投げられてテーブルが割れ、床を突き抜ける」という少なくともそれまで演劇で観た事のないシーンを創って、ここまでやったらぐうの音も出ないだろうという闘いに発展して行きました。何と闘ってるんですかね。

じゃあ今の俺が同じ状況に放り込まれてこういうアンチテーゼをかますかと言うと、別の闘い方をするかもだけど、当時はそれしか持ち合わせてませんでした。ただ、そのベクトルに自分のパラメーター全振り出来たので、作品に強度が生まれた。ような気はします。何か書いてたら当時の気持ちをどんどん思い出してきました。とんがってたなー我ながら。そうそうそう。いや大事よ、徹底するの。

そろそろ纏めます。

私の初の作・演出のJUNANという作品は、

演劇でプロレスをやろうとしてた男が、

演劇的とか無視した全方位エンターテイメント作品としてバカ7割に刺さるをイメージして創り、

当時の変な作品ばっか創るのに偉そうにしやがって、という強烈な反骨精神も後押しして、

無知故にそうするしかなかったが、その熱量で押し切ってしまって、全部いい方に転がった

という作品だったと言えます。

(今観ると当然粗も目立つし雑な所もあるし無知故に低俗だなあと恥ずかしいところも多いんだけどね…でも密度がね、いいんだよなあとは思います)

一応、字面だけで「面白がってくれた」とか「評価された」と言っても何か卑怯だなと思うので、作品そのものをYoutubeにでも上げられればいいのですが、その用意も無いので数少ない資料の中で、割と嫌ですが集合写真と折りチラのふざけて創った本当は配ってないバージョン(本物が残ってなかった)を張っておきます。なにぶん13年前故、メディアの発達も十分では無く、集合写真はインスタントカメラで撮ったものを撮ったものですし、画像もクソですがご査収ください。皆の顔よりこんな舞台装置だったよという事です。ちょっとでも雰囲気が伝われば。

「バカ7割に刺す」理論、如何にもテレビ的商業的だなあと思います。ホント謙虚さに欠けている。人としてスイマセンと思います。今は自分の面白いも変化している感覚があって、マジでそんな風に思ってないですが、それはまた別の機会に。ただ良し悪しとは別の軸で、現実的で的を射た考えだよな、とは今でも思っていますし、この時一番俺を支えていた概念だったなと思っています。

さて、思い返す程にあの頃の熱とか楽しかったなあとか思い出しますが、似たような作品を創りたいのか、と言われると、別にそうでもないんだよなあ。。。どうしちまったんだいオラ。。。いや今の方が彩鮮やかで面白くて難しいんだけどね。。。

とこんな感じで、この回を出発点として、まずは私が10年がかりで変化していく様を私が楽しむというコラムになりそうです。

次回は「②1回辞めるまでに起きた変化…大人計画と怪獣使いと少年との出会い」になるのかな?多分。

※※※おまけ※※※

7月に舞台出演します。

オフィスぐっちゃん 2020夏公演

「百日紅の上に浮かぶ満月とドーナツの穴」

7月25~26日@北池袋新生館シアター

チケット…¥2800

サルトルの実存主義が下地になったお芝居をやります。肩肘張りすぎず観れるように頑張りますので、ご興味ありましたらお気軽にコンタクトして下さい。

Twitter:@kariokajapan

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