33. re-journey: 少ない、だから感じる豊かさ@インド、ブッダガヤNo. 1
たまには旅のことを振り返りたいと思う。
何回こういったnoteを書くかわからないし、順序もめちゃくちゃになると思う。
だけど、旅を反芻することで、僕にとってとても重要な世界一周をより意味深いものにしていきたい。
それぞれの普通を感じる旅
インドではどこを旅するかはっきり決めていなかった。
一つ決めていたのは、「どこか場所を決めて1ヶ月滞在する」ということ。
僕の世界一周のテーマは「それぞれの普通を感じる旅」。
一旅行者としてではなく、半歩でいいから現地に入り込んだような旅がしたいと思った。だからラグジュアリーな旅は求めてなかったし、旅の前には英会話をある程度身に付けた。
半歩入り込んだ旅をする為に、観光名所だけ周るような数日間の滞在ではなく、1ヶ月同じ場所に滞在することを旅の前から決めていた。
アジアではインドをその国に選んだ。
1ヶ月滞在の具体的な場所として、当初は人も温かく居心地が良いとの噂をよく聞く南インドを希望していた。ボランティアをしながらホームステイができるホストを探し、目ぼしい3件ほどにコンタクトを取ったが、好ましい返信は得られなかった。
インドではまず北東部に位置する都市コルカタに滞在していたが、そんな時にそこで出会った旅人から、仏教の聖地のひとつであるブッダガヤの話を聞いた。
コルカタからも夜行列車で一晩あれば着く。
僕は無宗教だけど、仏教や神道は日本の文化や慣習に深く根付いている。
だから、遠く離れた異国の地で、ルーツ知ることも面白いかもしれない。
そんなことを思い、ブッダガヤでの1ヶ月の滞在が始まった。
宿坊に滞在@ブッダガヤ
ブッダガヤというのは、仏教の四大聖地の一つ。
仏陀が悟りを拓いたと言われている場所で、その場所にはマハボディという塔が建設されている。
同時に、この村はカースト制度の底辺からすらも外れたアウトカーストの村だ。貧しく、教育も行き届いていない。
そんな村で、僕は1ヶ月間過ごすことにした。
ブッダガヤは仏教の聖地ということもあり、日本だけでなく、中国、韓国、ブータン、タイなど、アジア各国の寺院が建ち並ぶ。まるで東京に各国の大使館が存在するように。
僕が1ヶ月間お世話になったのは、宿の機能もある日本のお寺、仏心寺。
お経も宗派も全然わからなかったけど、毎朝6時に起きてお坊さん(僕より少し年上の清水さん)と一緒にお経を唱えた。
2月。
インドとは言え、ブッダガヤの朝は肌寒い。
コンパクトに折りたためるユニクロのウルトラライトダウンを着て木魚を叩いた。
お風呂
ブッダガヤでの出来事は、複数回に分けて書きたいと思う。
そして、このnoteではタイトルにもしている豊かさについて書きたいと思う。
***
朝が寒ければ夜も寒い。
そして、手頃に泊まれるこの宿坊のドミトリーには、当たり前のように湯舟は無いし、シャワーも無い。それどころか、お湯すら出ない。
温かいお湯が出るのは、個室の客室だけ。あとは1階にあるキッチン。
熱々のお湯をバケツに注ぎ、それを風呂場のある3階にまで運ぶ。もちろんエレベーターなんてあるはずもない。
服を脱ぎ、風呂場に入る。
風呂場には洗面器があるので、その中にバケツから適量のお湯を入れ、唯一風呂場で出る冷たい水と混ぜ合わせてぬるま湯を作る。
お湯の量は限られてる。
少量のお湯を頭から全身にちょろちょろと1度だけかけ、全体的に汗を流す。
当時頭を坊主にしていた僕は、髪も顔も体も関係なく全身を固形石けんで一気に洗う。
そうしたら、またぬるま湯を作って、それを頭から少しずつかけて泡を落としていく。
少ない、だから感じる豊かさ
もう旅に出てから3ヶ月が経っていた。
宿は基本的にいつも安いドミトリーを選んでいたけど、シャワーが無い宿は滅多になかった。
それでも、不思議とこうしたお湯を混合する方法に不便は感じなかった。
住めば都、ともどこか違う。
お湯が限られているからこそ、それを大切にしようとするし、体に温かいお湯をかける毎に有難さを感じていた。
この感覚は、全く数学的ではない。
たくさんある方が、その存在を感じることができない。
少ない方が、むしろその存在を感じることができる。
世界一周から帰ってきて7年が経っているので、ものの少なさを感じた時「もっと欲しい」と感じてしまうことがある。きっとそれは、望めば実際に得ることができるから。
だけど、当時はそんな風には思わなかった。「もっと」と外側に欲を向けるのではなく、「今あるもの」という内側に満足を感じていた。
この感覚の核にあるのは、有難みを感じられる心だと思う。
食べ物でも、遊びの選択肢でも、多ければ多いほど良いという訳ではない。贅沢なほど良いという訳ではない。
インドでの経験は、たまたま制限のかかった状態だったから、より多くを求めても辛いだけだったのかもしれない。だから、有難みを感じることができたのかもしれない。
だけど、その宿坊とは環境が異なる日本でも、核の部分はきっと変わらない。
大切なのは、ものの多い・少ないではなく、その物事の存在を自ら感じようとしているか、有難みを感じようとしているか、ということなんじゃないか。
大切なものを大切にする
ものの少なさを感じた時「もっと欲しい」と外側に欲を向けていては切りがない。無神経に生きていては、量も質も際限なく欲は生まれてしまう。
豊かに生きるとは、多くの良質なものに囲まれて暮らすことではないのかもしれない。
豊かに生きるとは、自分が意識的にその物事を大切にすることで、存在の価値や有難みを感じる生き方だと思う。
この感覚はものだけじゃない。
時間も、人間関係も、僕はそういう気持ちを大切にして、豊かに生きていきたい。
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