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自己紹介 〜僕の人生とコーチングについて〜

僕は、【自分の道を力強く歩む/歩みたい人】を応援していきたい。
そんな思いを持ちコーチングを届けたいと思うようになるまでの人生を、ここで振り返りたいと思う。


父に気を遣う幼少期

歯科医の父と何事にも一生懸命な母の下で、男三人兄弟の次男として僕は生まれた。
高尾山の少し南に位置する神奈川県の城山町という小さな町で育った。

こんな風に言うといかにも素晴らしい家庭を想像するかもしれないけど、両親は仲が悪かった。
2・3ヶ月に1度は激しい夫婦喧嘩があった。父が投げた食器が宙を舞い、フローリングの上で粉々に割れた。

幼い僕は、辛そうにする母を助けたいという気持ちがあった。
兄弟の中でも父に一番気に入られていた僕は、父の機嫌が斜めになりそうな気配を感じると、積極的に父に話しかけて少しでも父の気を紛らわそうと努めた。
僕はまだ5歳だった。

その時の意識のベクトルは、特に母に向いていた。
自分以外の誰かに辛い思いをして欲しくない、という感覚が当時からあった。


「つまらない大人になるな」

小学生の頃の僕は、感覚のままに生きる子猿のような少年だった。
運動だけは得意で、そして負けず嫌いだった。

そして秩序を知らず、自分の納得感に従って生きていたように思う。
「どうしてこうすべきなのか」「どうしてこれはやってはいけないのか」ということを、一般論として大人から教わっても腹落ちしないことの方が多かった。
ルールだから、ではなく、ただその意味が知りたかった。
納得感という価値観は、この頃からずっと僕にとって芯になるものだったらしい。

だから、幼い頃から自分のルールで過ごしていたと思う。
これは行き過ぎだけど、若干法に触れるようなこともした。「いや、なんでダメなの?」と当時は本気で思っていた。

周囲を気にすることはあっても、配慮することを知らなかった。
周りに合わせることに、強い抵抗すらあった。
そんな協調性のない小学生だったから、高学年になって一時的に周囲の友達に嫌われたこともあった。母にもらった千円札を握りしめて、一人で夏祭りに出かけたのは辛かった。


小学6年生の時に、学年全体でタイムカプセルを埋めた。
各々が二十歳の自分に宛てた手紙を入れ、それを成人式の日に掘り起こそう、というイベントだった。

僕には将来の夢が無かった。
憧れの存在もいなかったし、どんな選択肢があるのかもよくわからなかった。
ただ、我が強く、そして普通を嫌った。だけど、ではどうしたらいいのか、という解は何一つ持っていなかった。

成人の日に手紙を掘り起こすまでもなく、僕は自分で書いたその手紙の一節を忘れることはなかった。
今でも覚えている。

「つまらない大人になるな。」

納得感のない人生を、ただ周囲に合わせて普通に生きるのだけはやめろ。
12歳の少年は、晴れの日を迎えたばかりの成人にそんなメッセージを送った。


自然体でいられない中学高校時代

中学生になると、スクールカーストがあったり、同調圧力に近いものがあった。
元々周囲に配慮するのが苦手だしそうしたくないと思っていたけど、そのような環境下で上手く立ち振る舞うことはできなかった。

学校では上手く自分を出せないわ、家では親父が暴れるわで、高校1年生の時に急性膵炎で倒れた。
急性膵炎というのは、酒やストレスが原因で発症することが多いが、若者が発症するのは珍しいらしい。(一応断っておくと、当時はお酒なんて飲んだこともなかった)
膵臓は最も強い消化液を出す消化器官。ここにストレスが加わると消化液を出し過ぎてしまい、自身すら溶かしてしまうのだ。(やはり自分の体もお肉らしい)
即入院となり、そのまま4週間を病院で過ごした。風邪もほとんどひかないような健康体だと自負していたが、内面は違ったらしい。
最初の1週間は唾液を飲み込むことさえ許されず、排尿はベッドの上で尿瓶にした。栄養と水分は点滴で賄った。

将来のことは相変わらず全然わからないけど、僕は父を反面教師にしていた。
この頃から「良い父親になる」というのが僕の夢になった。


自分を理解し始めた大学時代

大学生になると、ようやくクラスという名の半強制的なグループから解放された。
昼は一人で食べることが多かったけど、むしろその方が気が楽だった。
大学のテニス部と、居酒屋でのバイトというのが、僕の世界の全てだった。
誰に何を強制されることもなく、酒の場では懐の深い先輩にズケズケものを言った。
今思えば、僕の生きる世界はとても狭かった。だけど、何にも縛られない状態が心地良かった。
自分を偽らず、そのままの自分でいることができた。

自分の考えを書き出すようになったのも大学時代からだ。
これまで納得感を大切にしてきたけど、社会の常識に違和感を感じる一方で、自分で何かを掴めている訳でもなかった。
だから、自分の中にある曖昧な何かを掴むために、もやもやを感じた時にはパソコンに書き出すようになった。その習慣は今でも続いている。


時間とお金を自分のためだけに使えるのは二十代だけ

就職活動時に考えていたことが一つある。
それは、「3年で会社を辞める」ということ。

長い人生を考えた時、「十分にエネルギーがあり、そして時間とお金を自分のためだけに使えるのは二十代だけ」だと思った。
将来は結婚して子どもを持ちたいと思っていたから、30歳の時点では地に足の着いた仕事をしていたい。
一度切りの人生。何か思い切ったビッグイベントを、主体的に持ちたかった。


実家を出て一人暮らしをしたかったということもあり、新卒では家賃補助が全額出る会社に入った。そして、毎月の生活費を10万円と決め、残りはボーナス含め全額貯金しようと決めた。
入社前のExcelでの計算では、3年間で500万円近く貯金できるはずだった。
それまで想像したこともないようなお金を想像し、パソコンの前でニヤニヤした。
そして実際に450万円を貯めた。

何に向かえばいいかわからなかったけど、仕事ではコンサルとして成果を出しながら、休みの日には社会人セミナーに参加してみたり、本を100冊近く読んでみたり、自分のやりたいことを100個リスト化したり、考えの書き出しを続けたりと、行動を続けた。
3年で辞めるのは良いけど、それだけ大きなお金と時間を投資するのだから、必ず有意義なものにしたい。
(実はこの頃に大好きだった元カノに振られて、エネルギーのやり場に困っていたので、すべきことがたくさんあったのは有難かった。)


金銭的にはかなり厳しく自分を管理していたけど、東日本大震災が起こった年、僕は初めて有給休暇を取得した。
石巻へボランティアに行くためだ。
テントやら寝袋やらを手配し、食料持参で夜行バスに揺られて石巻に向かった。
当時の僕にとっては大金の10万円くらいの出費があったけど、行くことが当たり前という感覚だった。
他人事とは思えなかったし、いつ誰があのような災害に遭うかわからない中、災害に遭わなかった僕が少しでも彼らの役に立たないとフェアじゃないと思った。
5歳の時から持っていた他者への意識は、大人になっても持ち合わせているようだった。


世界一周に行くことに決めた

“普通“というものが嫌いだったけど、それはその“普通”に納得感が無いからだ。だって、「みんなやってる=正しい」というロジックは通らない。

今後の長い人生を歩むに当たって、自分の中に答えを持つことが僕にとって大切だった。
今のような時代に生まれ、有難いことに海外にも数十年前とは比較にならないほど簡単に行けるようになっていた。
日本以外の“普通“に触れることで、自分の中に答えを持つことに繋がるのでは、思った。
その上で、多様性を受け入れられる柔軟でタフな人間になることで、それ以降の人生をより豊かに生きたいと思った。
20代は、それを叶える十分な思考力と体力と経済力があり、そして多様性に感化されるだけの柔軟性を持ち合わせている。

だから、世界一周に行くことに決めた。24歳での決意だった。
帰国後の当ては何もない。行かないで後悔するくらいなら、帰国後に一生コンビニバイトでもいいと思っていた。

「つまらない大人になるな。」
12歳の僕が、今の僕に語りかけてくる。

“普通”を感じるには、現地の人々と十分なコミュニケーションを取りたい。
そう思い、ほとんどゼロの状態からオンライン英会話を始めた。最初は「ハロー」と「イエス」くらいしか言えず、苦笑いして時間だけが過ぎていったが、継続することで少しずつ意思疎通ができるようになっていった。
約2年間毎日オンライン英会話で実践しながら、独学でボキャブラリーや文法を補った。

カタリバというNPOの活動に参加したのはそんな時だった。
高校生にとっての斜め上の関係として、大学生や社会人が彼らの人生や価値観などについて話を聞く、という活動だった。
カタリバの中にはコーチとして活動している人もおり、コーチングに興味を持つきっかけの一つになった。
2013年のことだった。


世界一周〜1年7ヶ月、40ヶ国を巡る旅〜

2013年10月23日、26歳の僕は日本を発った。
「それぞれの普通を感じる旅」というテーマの、世界一周の旅が始まった。
アジア、中東、ヨーロッパ、北米、中南米、アフリカ。
たった一人、そんな順路で世界各地を巡った。

毎日のように新しい刺激や出会いがあった。旅をしていたのは1年7ヶ月だったけど、体感としては5年以上のように感じた。
書き出すと切りがないけど、インドのお寺で座禅を組んだり、トルコの酪農場とデンマークのB&Bで1ヶ月ずつ住み込みで働いたり、コロンビアで襲われて死にかけたりした。(11針縫った)


一つ印象的だったのは、ベトナムとデンマークで現地の人に泊めてもらった時のこと。
ベトナムのフエという街では、カメラマンのアンディ(ベトナム人・英語名)に泊めてもらった。
30歳前後の彼は、地元の交友が広く、友人の経営するカフェに一緒に行ったり、ツアーガイドとして働いている友人と一緒に、僕を含めた旅行者とのナイトウォークイベントを催したりしてくれた。(そこで出会ったシンガポール人の友達とは、数年後に日本やシンガポールで再会した。)

デンマークのオーフスという街では、国境なき医師団で医師として勤めていた50代のGreteという女性に泊めてもらった。
彼女は仕事をリタイアしてから地元オーフスに戻り、今では学生時代に仲の良かった4人組で毎週火曜に週替わりでホームパーティを開いている。
僕もそれに参加させてもらったが、彼らの関係性は家族のような距離感で、安心感と温かさがあった。

「大切な人と人生を共有する」ことが、僕にとっての豊かな人生の一つの要素だ。
そう思わせてくれた経験だった。


旅の中では、旅人と語り合うことも多かった。
海外で多くの刺激に触れ、そして同調圧力なんてものが存在しない環境の中で、互いに大いに自己開示しながら深い話をする。
そんな語り合いに、心が響いた。
中高生の頃に周囲の目を気にする様な感覚とはまるで異なる、本物のコミュニケーションだった。
(今振り返ると、オープンである意味コーチングのような関わり合いだった気がする。)

日々の刺激は、自分と向き合う機会を与えてくれる。
何が正解か、どうすべきか、どうあるべきか。答えのようなものは無数に存在していても、自分にとっての答えはどこにも書いてないし、誰も教えてくれない。
それぞれに慣習や倫理があるし、周囲と共鳴しながらも自分を信じて生きていくしかない。

旅の途中ではメモやブログをたくさん書いた。
そこでの言葉は、今も僕を支えてくれている。


そして旅の最後の国、40カ国目に当たるタンザニア。
旅の締め括りとして、考えを書き残しておきたかった。
色々な考えを書いてきたけど、最後の締め括りとして納得のいく文章を残したかった。
数日間自分と向き合ったが、なかなかど真ん中に来る文章が書けなかった。

そして、この文章が生まれた時、「ああ、これで旅を終えられる」と感じた。

僕らはみんなバラバラで、みんな違う。
一緒に生きていながら、みんな違う。


小さなこの星に生まれ、バラバラに生きる僕らは、一体何を信じて進めばいい?


僕はそれを書かない。

信じるものは、みんなそれぞれ違うから。

信じられるものは、みんなそれぞれ違うから。


真っ暗闇の中、一体何を道標にして進めばいい?


それは、自分だと思う。

真っ暗闇の中に、自分で光を灯す。

足元を照らす。

道を照らす。


他人を信じるなとか、孤独に生きろ、というのではない。

自分を信じろ。

自分の目で見て、肌で感じて、頭で考えて、傷を負って、呼吸をして、音を聞いて、真っ暗闇の中を進むんだ。



僕が今信じていることをここに書いたところで、それが全ての人に有意なものだとは限らないし、それは将来の僕に対してだってそうだ。


自分を道標にして、生きよう。

旅の終わりに 〜 a rolling ball in the air


人は人の中で生きていくけど、自分の人生の責任は自分でしか取ることができない。
そして、人はいつか必ず死ぬ。
いつかその日が訪れた時、自分の人生に納得感を持ち、「生き切った」「素晴らしい人生だった」と言えるか。

それは、簡単なことでは無いと思う。
だけど、シンプルなことだ。

自分で考え、経験し、傷つき、成長する。自分を偽らず、確かなものを掴んでいく。そうやって人生を歩んでいくしかない。
それとも誰かや何かに依存して、それらに文句を言いながら一生を終えるか。

不確かで変化の激しい今の時代。
NetflixやYoutubeのレコメンド機能のお陰で浅い欲求は満たしてくれるでしょう。
一般的に言われる、朝日を浴びようとか軽い運動をしようとか、そういったことを守ればある程度健康的に生きられるでしょう。

僕は子どもの頃から上手く周りに合わせることもできず、自分とは何かもわからないまま傷つきながら生きてきた。そんな生き方はしなくていい。
だけど、誰もが自分を掴み、自分で自分の道を選び、自分の足でその道を歩んでいくしかない。今のような時代だからこそ、それが本当に重要になっている。どこを見渡しても正解なんてない。
そうでなければ、薄っぺらで自分らしくもない“普通”の人生でその生を終えてしまう。

だけど、人はそんなに単純で安っぽい存在ではない。
もっと奥深くて、良い意味で複雑な生き物だ。

そして、その複雑さの奥にある答えはどこにも書いてない。
あなたの中にしかない。
そして、それを見付けることができるのは、紛れもないあなただけだ。


再就職、そしてコーチングの道へ

帰国後、TOEICで770点を取得してから、英語を使える仕事に就いた。港区にある外資系商社の営業だった。
自分の感覚とは随分異なる会社だったけど、違いからも学びは得られると思い、一生懸命働いた。
ただ、正直に真っ直ぐ生きたい自分と、本心は隠して上手くやれ!というスタンスの企業文化に、大きなギャップをずっと感じていた。

一人でドイツやオランダに出張に行ったり、所謂一流企業と商談をしたりと経験値は積んだが、生き生きと力を発揮できている感触は無かった。


その会社に入って4年目となる2019年のお盆休みに、僕は石垣島へ一人旅に行った。
その年はちょうど旧暦と新暦のお盆が重なっていたこともあり、中心地から離れたところで行われる、地元感溢れるエイサー祭りに行くことができた。
1杯100円の激安の泡盛水割りを飲み、舞台の上では地域の方々が沖縄民謡を歌ったり、踊ったりしていた。

その夜のメインは宜保和也さんという三味線奏者。NYのBlue Noteでも演奏をしたことがある程実績のある方だ。
祭りも後半。舞台下の原っぱに座っていた来場客は、彼の演奏で気持ちも高まりみんな立ち上がって心のままに歌い、踊った。

僕も世界一周をしたような男だ。本来であれば、その踊りの渦に飛び込んで楽しもうと思っていた。

だけど、そうはできなかった。
ただただ心のままに楽しむ人々の姿に、気付いたら僕は一人涙を流していた。小さく嗚咽をあげるほどに。
心のままに楽しむ彼らの美しさを感じることで、自分の心にずっと嘘を吐いていたことを実感したからだ。

入社してからずっと会社での働きに違和感を感じていた僕は、「会社を辞めなきゃダメだ」と強く感じた。


コーチングのスクールに通い始めたのは、2019年11月だった。
その翌々月にはメーカーの海外営業に転職した。


今とこれから

2022年8月現在。
会社員として働きながら、プロコーチを目指してコーチングを提供している。(実績71名、内有償3名、120時間超)

2023年中にプロの資格を取得し、これまで以上に多くの方により価値の高いコーチングを提供していきたい。

正直、そこから先のことはよくわかってない。
コーチングだけで食べていくことができるのかもわからないし、そうすべきなのかもまだわからない。
だけど、ずっとコーチングを続けていくんだろうな、という確信めいたものが僕の中にはある。
自分の中にある道標を頼りに歩みを進めた先に、きっとより美しい彩りと深い充実感があるような気がしている。


終わりに

後悔のない人生を歩んで欲しい。
コーチングに向き合うとき、僕にはこの一心だけがある。
他人の人生かも知れないけど、僕はそれを放っておけない。

だけど、後悔のない人生を歩むことは簡単ではないかもしれない。
周囲の価値観にも影響されるし、多忙な日々に追われていては自分を顧みることもなかなかできない。
時間があったとしてもそんな風に自分の内側に意識を向けることは実は簡単ではない。

何を持って後悔と呼ぶのかは人それぞれかもしれない。
だけど、一つ確信していることがある。
それは、後悔のない人生を歩む人は「自分を偽らない」ということ。

偽らない為には、まず自分を知る必要がある。
そして、その自分を信じて生きる必要がある。

そんな生き方をするには、どうしても勇気が必要になる。
何度も自分の内側と語り合って、自分を偽らずに行動していく必要がある。

それは簡単ではない。だけど、きっとあなたにも出来る。

自分で自分の道を選び、そしてその道を力強く歩んで行きたいと願う誰かのために、僕はここにいます。
もしそれがここまで読んで下さったあなたであれば、僕はとても嬉しい。

あなたの大切な人生を、僕と共有してくれませんか?


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