ハゼノキってどんな色?③ 黄櫨染とは何なのか?
みなさんこんにちは。鹿児島は梅雨が明けました。いよいよ夏も本格的に始まり暑くなってきます。今年も非常に暑くなる予報がでていますのでくれぐれも熱中症にはお気を付けください!先週はハゼノキの潜在的にどんな色を持っているのか?という事を草木染の染料としての始点から考えてみました。予想通りの点と予想外の点があり面白い結果になりました。そんな先週の記事はこちらから。
今週は先週最後に予告しました、ハゼノキを使った草木染の原点でもあり、頂点でもある「黄櫨染」に関して書いていこうと思っています。前回黄櫨染を取り上げた際は「木」を主題としたお話でしたので、今回はがっつり「色」と「染」について書いていこうと思います。余談になりますが、令和の即位礼正殿の儀がテレビやネットでも中継されたため、知名度が上がった黄櫨染御袍ですが、実は夏服と冬服があったりします。令和の即位礼正殿の儀で着用されたのは冬用でした。ちなみに違いは服の厚みだそうです。
■謎多き染色技法黄櫨染と黄櫨染御袍
黄櫨染は太陽の色を表しており、当時の中国の王朝であった隋唐の影響を強く受けています。隋の煬帝以降は、皇帝の色として五行説の最上位色である黄色と太陽の「赤」をまぜた赭黄色に近い色を採用していました。日本でもこの影響をうけ、この色に近い黄櫨染を最上位の色とし、その材料として櫨と蘇芳が用いられたようです。
さて、「謎多き」と書きましたが、実は材料自体は平安時代に書かれた延喜式に記載されており、体系化された染色技法としては日本最古という歴史を持っているのがこの『黄櫨染』です。ちなみに材料はこんな感じです。染料としての素材は櫨、蘇芳、紫草になります。
以前にも書いたのですが、「黄櫨」の解釈が日本と中国で異なっており、日本の場合はヤマハゼを、中国の黄櫨はハグマノキの事を指し、当然染色も異なっていたと考えられます。日本は黄土色、中国では黄色に近い色だったと推察されています。また、黄櫨染は再現性が難しく見た目の色も一品一様だったようです。これは現在ネットも見ることができる黄櫨染御袍を見ることでもわかります。Wikipediaの写真で恐縮ですが平成・令和の黄櫨染御袍の違いです。
日本における服飾制度は奈良時代の701年の衣服令(えぶくりょう)から始まっていますが、こちらは臣下の礼服を規定したもので、天皇の礼服に関しては天平四年(732年)の『続日本記』に聖武天皇の礼服記録がありますが、特別礼服の規定があったわけではなさそうです。その特に着用した色は太陽の輝きを模した赤色だったようです。黄櫨染は弘仁十一年(820年)の嵯峨天皇の詔により始まりました。
ただしこの時の黄櫨染は、即位用の礼服というわけではなく、海外からの使節の対応などに使われていたようです。即位礼に用いられるようになるのは明治時代からで、比較的新しい決まり事でもあります。そしてこの時同時に、「袞冕十二章」といわれる天皇の礼服に用いられる12種類の刺繍もできましたが、黄櫨染御袍にはこの12種は描かれませんでした。
■ではいったい何が謎なのか?
そもそも染め方が書いてない。という身も蓋もない点です。材料は書かれているのですが、どの順序で材料を使い、どの分量で、どのくらいの時間、何回染めたのかが良くわかっていません。黄櫨染でよく言われる「色が変化する」という話の原因の1つに、この「染色方法がわからない」という事が少なからず関わっていそうではあります。
とはいえ、さすがに主が黄櫨でそれに蘇芳を合わせるという事ぐらいはわかりますので、まずは黄櫨で染めて、そのあと蘇芳を重ねるという方法で黄色に赤みを加えたと想像できます。実際に写真右上のように単純な櫨+蘇芳で絹を染めると見た目は近い色がでます。
紫草はどうした?と突っ込まれそうですが、見た目の色としてはこれで十分黄櫨染になっているので結論としてはよくわかりません。。。が、材料の書き方にヒントがありそうです。つまりこういう事かな?
わざわざ帛(はく:絹)と途中で区切っているので、おそらくですが黄櫨染とは櫨+蘇芳で染めた絹布と紫草で染めた絹布の2枚を合わせたものなのでは?とも読めないでしょうか?「帛」とあるので紫草は裏地用。根本的に一定しない黄櫨染の色調と、絹布の厚みの変化。これに絹そのものの光沢が加われば。。。結構面白いところまで行ける気がします!とはいえ、正確な染め方の順序が分かっているわけではないので、見かけの再現という事にはなりそうですが、なんだか面白そうです!
■徳川吉宗による古色の復活『式内染鑑』
染色技法が途絶えた正確な年次はわかっていませんが、少なくとも鎌倉時代には一度途絶えていたとも考えられています。この影響があったのか現存している黄櫨染の中でも江戸時代前期の後西天皇、東山天皇、霊元天皇の黄櫨染はどちらかというと「黒っぽい色」であり、現在の黄櫨染御袍とはかなり異なった色味をしていたそうです。一方で中御門天皇の時代には赤黄色と現在に近い色味に変化しています。
この時期、8代将軍徳川吉宗が古色の復活を掲げて、享保十四年(1729年)吹上の園中に染殿を開き、延喜式内の染色技法の解明を命じており、その集大成となるのが『式内染鑑』でした。中御門天皇の即位が1706年であり、直接的な影響はなかったもしれませんが、古色の復活の機運がのこ東山天皇から中御門天皇間の黄櫨染の「色」の変化を生んだのかもしれません。
残念ながら『式内染鑑』は現存していませんが、後年の写本の一つである、久留米藩の松岡辰方が書いた『延喜式内染鑑』は現在でも見ることができます。(『延喜式内染鑑』はkindle unlimitedでも読むことができます:2024年7月19日現在)結果として現在私たちが目にする黄櫨染はこの『延喜式内染鑑』がベースとなっているのかもしれません。ただし、即位礼や退位礼で着用された黄櫨染御袍の正確な染めたかは私も継続調査中です。
■黄櫨染の紋、桐竹鳳凰麒麟はいつ成立した?
最後にもう1つ。黄櫨染御袍に入る「桐竹鳳凰麒麟」に関してです。黄櫨染御袍には「袞冕十二章」の絵柄は採用されませんでした。黄櫨染御袍に文様が入ったのが延喜九年(907年)の「醍醐天皇御祝」からで、この当時の文様はまだ「桐竹鳳凰」であり、麒麟は鎌倉時代の「天子摂関御影」に登場しておらず、応永六年(1399年)高倉永行の「装束雑事妙」にようやく麒麟が登場し、めでたく「桐竹鳳凰麒麟」が完成します。
太平の世をたたえる鳳凰、鳳凰が地上に住むとされる桐、さらに鳳凰が食すとされる六十年に一度稔る実をやどす竹。これだけでも太平の治世をたたえるものとしては十分なのですが、これに仁のある政治を行うときに現れるとされる麒麟が加わっています。いずれにしても太平の世と仁ある政治を象徴する文様として黄櫨染にあらわされています。
太陽を象徴する色と太平の治世を象徴する紋。天子の袍としてこれ以上の組み合わせはないと思えるほどの組み合わせです。その一端にハゼノキが使われると思うと、なんだ感慨深いものを感じます。この魅力的な樹木をさらに広げて行けるように頑張っていこうかとさらに決意を新たにしました!
【参考文献】
大河内ただし: 日本ムラサキ草栽培の探求, 農村漁村文化協会, 2018.
八條忠基:日本の装束解剖図巻,エクスナレッジ,2021
青木正明:伝統色づくり解体新書「天然染料と衣類」カラー写真で理解する染の再現,日刊工業新聞社,2022.
近藤好和:装束からみた天皇の人生,国立歴史民俗博物館研究報告第141集,61-75,2008.
坂田圭子:延喜式にみる「黄櫨染」の色調-山櫨と蘇芳による染色の一考察,41-50,2013.
中村光一:江戸時代における『延喜式』研究の一様相縫殿式十三雑染用度条をめぐって,国立歴史民俗博物館研究報告第218集,255-278,2019.
国本学史:黄櫨染色の特殊性,日本色彩学会誌第44巻第3号,200-203,2020.
内田努:明治神宮所蔵黄櫨染御袍の資料調査報告,明治神宮国際神道文化研究所「神園」令和4年11月号,P.141,2022.
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