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どれも同じくわたしで3月11日

金曜の夜、新宿。
乾杯をした26人は、まだお酒なんて飲めるはずもない幼稚園児だった。3週間前に唐突に招集された懐かしの幼稚園組。40人中26人出席という出席率の高さが面白い。あの頃の面影を残しつつも縦に伸びた人たちが、続々と集合していくのは何だか不思議な心持ち。知ってるのに知らない、久しぶりだけど仲良し。男女の区分けもまだないような“あの頃”を共有し、ぐんぐんと育ってきた、2000年生まれの40人。あまりに内輪ネタすぎる夜は、逆に語りにくい。素でしか生きていない時代からの友だちだから、表情がどんどん生き生きし出すのもよくわかる

とまぁ、謎に句読点を斜めにする遊びをしつつ幼稚園同窓会を語る。(下書きと組みがずれてたら悲しいな。そうかも)


多分わたしには、考え続けると苛立ちがたまる問いが何個かある。
「なんでこれをしてくれないんだろう」
これには(わたしはしてあげたのに)という前提がつくことが多くて、交換されない理不尽さに苛立つのだと思う。これが、“してあげたい”のうちは均衡がとれている。

「なんでそんなこと言うんだろう」
大抵家に帰ったあとにじわじわくるパターン。その場で返せたらすっきりするのに、今さら蒸し返せないから身体の中をぐるぐるとする。

こんなことを考えたのはまあ置いておいて、大概自分一人で考えているより相手は何も考えていない場合が多い。そしてその考えてもらえなさに自分を損なわれた気がして落ち込むのだけれど。

日曜日、映画を観終わって半券でアルコールとデザートを楽しむ昼下がり。最高だなと悦に入る。誰にも損なわれない邪魔されない。別に気持ちのアップダウンが激しいわけでもなく、どれも同じくらいのテンションで思い出す月曜日の帰り道。震災から、という数え方はいつの間にか、コロナから、に置き換わってきた。どの時代のわたしも、どのテンションのわたしも、どれも同じくらい。

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