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→←+−\/6月25日

してもらう、してあげる。
人間関係にはやりもらいが多く生まれる。
日本には尊敬語やら謙譲語やらがあるように、行為の矢印の方向とか上下関係を気にする文化がある気がする。他の文化分からないけれど。

何でこの話を書いているかというと、最近のある2つの会話がつながっている気がしたから。

ひとつは、会社の同期と。
わたしが彼氏さんと会うとき。その会いに行く、会いに来てくれるのバランスはとれているのかという話をしていた。
純粋な回数でいったらわたしの方が会いに行っていると思う。でもそこに、してあげるの意識がなかったから新鮮でちょっと考えてしまった。たしかに友だちが彼氏のもとに毎回通っていたら、わたしも違和感を覚えそうだしわかる気がする。

ふたつめは、友だちと。
最近のテーマが、おせっかいについてだという彼。おせっかいはある種の自己満足、理想の押しつけになり得るけれど、それをするにしてもしないにしても善し悪しを考えてしまうと。
そういえばわたしも一個上の先輩に注意というかアドバイスをもらってお礼をしたら、細かくてごめんと謝られてしまって、難しいなと感じたところだった。

この2つの会話、どっちもやりもらいのお話し。たしかに世界はギブアンドテイクで成り立っていて、その感覚はよくわかる。
でも何だかそればかりを考えてしまうと、純粋な想いがすり替わってしまう気がするのだ。

たとえば彼氏さんとのことでいえば、会いに行ったという実際の行為よりも、会いに行きたいという純粋な想い。こっちの方がよっぽど大切に見つめるべき感情で、幸せな事実だと思う。
それを ”してあげた” から、”してもらいたい” に変換してしまうのはちょっとしたずれだけれど、遠くまでいくと大きな違いになる気がする。

おせっかいも。傲慢さに自覚的であることは大切だし、愛情と引き換えに押しつける理想は苦しい。
でも、お花に水をやる。誰かを思いやる。
美しい行為にも傲慢な側面はきっとあって。その危うさから逃れられないのだと思う。
だからこそ、せめて最初に生まれた純粋な願いを見つめていたい。損得でなく、自己満足でなく。

文章を書くことが好きなのは、一方的な行為でありながら読者がいるという、そんなあやふやな、やりもらいの関係性だからかもしれない。

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