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石ころもダンゴムシも見えない帰り道3月26日

朝、少年がスキップで階段をあがっていた。なかなか難しい技だと思って二度見するけど、たしかにスキップをしている。いいことがあったのか、あるのか、何もないのか。考えるという行為を飛ばして、感情が行動に直結しているその幼さが少し羨ましい。いつからわたしは真っ直ぐに道を歩くようになったのだろう。かつては石ころを蹴り、霜柱をふみ、ダンゴムシを突いては丸めていた。自宅から学校までの道のりは、成長とともにショートカットされる。微かな睡眠の延長の代償に省いてしまったのが、幼さなのだろうか。

逆について回るようになったのが、微笑だ。いつか微笑について同期と話したのだが、どういう話だったか忘れてしまった。最近思うのだけれど、わたしは同期の前であまり微笑しなくなった。何というか、意味のなさを感じたのだと思う。女性が、という前置きは嫌だけれど、女の子は笑っていた方が可愛いんだからと嗜められたことは一度や二度ではない。たしかに笑顔の方が可愛い。話しかけやすい。親しみやすい。でもコロナ禍のzoomで顔出しオンとオフの場合で疲れ方が極端に違うことに気づいてしまった。もう、顔出しは表情筋がめちゃくちゃに疲れる。人に見られるときの顔と、スマホがふと暗くなったときに映る顔は違う。鏡に映った瞬間にはもう違う。本当の無表情は、人に見られていてはできないかもしれない。

幼稚園の同窓会で、当時の写真をみた。集合写真で、笑顔の子はほぼいないことに驚く。みんなぽけっとしている。ただ、集合しカメラを向けられて大人しくしてと言われても、何の感情も湧かないのだろう。素直な顔で逆に写真を撮る時、いかに笑顔を作っているかがわかる。

スポーツとかダンスをやると、自分の身体の動きと外から見た時の動きの認知が一致してくる。手を挙げたら、どう見えているのかが想像できる。客観的な第三の視点。この視点が奪っていくものは何だろう。代償に失うものは。
衝動でなければいいな。たまには、感情をそのままに身体が動いてほしいと思う。

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