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高貴な動機と遠大な目的をもった社会的、経済的実験〜全国禁酒法・後編〜


どうもです。

前回はアメリカの”禁酒法“について、
なぜそんな法律が出来たのかというところまでを前編として、振り返ってみました。


ざっくり言えば、
酒場“を潰したい層(ASLを中心としたドライ派)が、政治的な力を握って、
修正憲法成立まで漕ぎつけたという話でした。


今回は、
その後編として、”禁酒法“が制定された後、
どんな流れで、どのような影響があったのか、どんな変化があり、何が生まれたのか、
などなどを少しまとめてみたいと思います。

また、
禁酒法の影響うんぬんは別として、
この時代がどんな時代だったかというのも俯瞰的に述べられたらと思います。


【今回のお言葉】


『(禁酒法は)高貴な動機と遠大な目的をもった社会的、経済的実験』

by ハーバード・フーヴァー(第31代アメリカ大統領)


まず、
アメリカに全国的な禁酒を制定した”合衆国憲法修正第18条”は1919年に成立し、1920年に発効されました。
そして、
この憲法に則った『全国禁酒法(ヴォルステッド法)』が成立しましたが、
この法律が「適当な立法」としても歴史名高い法律となりました。


内容を確認すると、
アルコール(酩酊性飲料)の製造、販売、運搬、輸入、輸出を禁止する。
としておきながら、
酒を買うこと、飲むこと自体は違法ではなかったわけです。

ですから、
成立後、施行までの期間に、酒を買い占める人が増えました。
そして、
家で今まで通り飲酒を楽しむ人たちもいました。

さらに、
禁酒法(ヴォルステッド法)』の第4節(f)項および第33節では、
自家醸造ワインサイダー (リンゴ酒)は、法の適用外に置いており、
その酒類を、私宅(ただし、住居としてのみ使用されているもの)に所有することは
その家の所有者・その家に住む家族・(真正の)招待客たちによる飲用する目的に限り非合法ではないと認められていたのです。

このように、
法施行前に買い占めを行えたり、
禁酒法中も自家醸造してホームパーティーできるのは中流階級以上の人々なわけでして、
『禁酒法』はある意味、“法の前の平等を逸脱しており、貧者を差別する一種の階級立法“だったと指摘する専門家もいました。

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▲密造酒を捨てる捜査員(Wikipediaより)


また、医療用アルコールも認められていた為、
医師の処方箋があれば、ウイスキーなどのアルコールが手に入るということもありました。
(処方箋を次々に書いて儲けた悪徳医師もいたようです。)

このように、
全体的には家で飲酒を楽しむ人が増えたとのことですが、
元々、禁酒派は、酒場を潰したい禁酒運動家(ASL)たちの働きかけが主力だったわけで、
そこにはあまり無関心だったのでしょう。


スピークイージーの誕生


その一方で、
パブやバーといった酒場はそのほとんどが潰されてしまいました。
かといって、
人々が簡単に酒を求めなくなるわけではありませんでした。


そこで、
元々酒場が数多く存在していた北部の都市部では、
密造酒を飲める「隠れ酒場」が各地で流行しました。

隠れ酒場」は、表向きはドラッグストアだったり、カフェだったり、理髪店だったり一見無関係に見えるのですが、
入店の際に扉の裏にいるドアマンに合言葉を言うと、
アルコールの飲める隠し部屋へ行けると言うものでした。

警察からの捜査を防ぐためにこういう「隠れ酒場」が流行ったわけですが、
入店の際の合言葉を周りに聞こえないように「こっそりと話す」ことから、
こういう『隠れ酒場』のことを「スピークイージー」と呼ぶようになりました。
(諸説あります。)

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▲スピークイージーのイメージ画(http://theroaringtwentieshistory.blogspot.com/2010/06/prohibition-and-speakeasies.html)

そんな「スピークイージー」が数多く誕生したわけですが、
そこで出されるお酒はピンキリでした。

禁酒法で酒の製造が禁止されていたので、
『スピークイージー』で出されるお酒は密輸や密造したものであり、時には工業用のアルコール(メタノール)だったりしました。

工業用アルコールには毒性が含まれているので蒸留が必要でしたが、
その蒸留が不十分な為に、最悪命を落としてしまうケースも多発したそうです。


また質の悪い密造酒も、匂いや味が悪い為に、
それを誤魔化す為にカクテル技術が発展しました。
(もし警察に踏み込まれてもお酒に見えないという理由でカクテルが発明されたとの説もあります。)

今世界中で嗜まれているカクテルも、
こうした逆境の中で発展してたんですね。
いつでもピンチはチャンスということでしょうかね。

その他にも、
ティーカップにワインを入れて出したりなど、
警察や監視員の目をすり抜ける為に様々な工夫がされ、
さらには警察への賄賂も横行することで、
スピークイージーは摘発を免れながら各地で繁栄していきました。
そして、
例えばNYでは、元々1万5千あった酒場が、禁酒法以降は3万2千もの「スピークイージー」を生む事になり、
市民の飲酒量も、禁酒法以前の10パーセントも増加しています。

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▲現存するNYのスピークイージー『21CLUB』(Wikipediaより)

なんだか本末転倒な感じもしますね。


マフィアの台頭


そして、
そんなスピークイージーを取り仕切ることで、
一気に暗躍したのがマフィアでした。

マフィアとは、
イタリアのシチリア島で生まれた秘密犯罪組織ですが、
アメリカでもイタリア系移民を中心にしたアメリカマフィアが生まれていました。

1870年頃から結成されたといわれるアメリカマフィアのシノギと言えば、
はじめは賭博・売春・麻薬等が中心でしたが、
禁酒法時代には、酒の密造や密輸が新たな収入源となりました。


それまでのマフィアは縄張り争いが多かったのですが、
チャールズ・ラッキー・ルチアーノ”が、
「身内で争うことなく、密造酒事業を全国規模で組織化しよう」と働きかけ、
犯罪シンジケードとして組織化されていくことで、
マフィアの発展を後押ししていてました。

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▲チャールズ・ラッキー・ルチアーノ(Wikipediaより)

ニューヨークを拠点にしていた”ルチアーノ“は、
自身の右腕であった”マイヤー・ランスキー“が、
カナダからのアルコール密輸ルートを確保し、
高級なウォッカやウイスキーを仕入れては上流階級に売っていました。

一方で、シカゴを拠点にしていた”アル・カポネ“は、
自分の蒸留所で作った酒を大量に卸していましたが、
その多くは、あまり上等ではなかったと言われています。

このように各地でそれぞれのマフィアのボスが、
非合法な方法で、莫大な利益を得ていました。
そして、
その金にものをいわせて、政府の役人や警察などの表の権力機構をも操るようになっていました。


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▲禁酒法時代のマフィア

そんなマフィアの様子を描いた”マフィア映画“が生まれたのもこの時代でした。
1928年『ロマンス・オブ・ザ・アンダーワールド
1931年『暗黒街の顔役
がその始まりと言われており、映画ジャンルの1つとして定着していきました。

1972年から公開された『ゴッドファーザー』シリーズはあまりにも有名ですよね。

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マフィアとJAZZの関係


全国禁酒法が施行されていた1920年代は、
JAZZ AGE」と呼ばれるほど、
JAZZが発展した時代でもありました。

これは1918年に第一次世界大戦が終結し、
享楽的な都市文化が発達した時代に相まって、
軽快なJAZZが流行したと言われており、
大量消費時代・マスメディアの時代の幕開けでもあったと言われています。


前回の記事でも紹介したように、
酒場音楽は切っても切れない関係であり、
ニューオーリンズストーリーヴィルで産まれたJAZZは、
ストーリーヴィル閉鎖と共に、JAZZミュージシャンたちは北部の酒場へと流れて行きました。

その酒場も『全国禁酒法』により潰されてしまうと、
マフィアが『もぐり酒場(スピークイージー)』にJAZZミュージシャンを囲うようになります。

例えば、
シカゴの”アル・カポネ”は無類のJAZZ好きであり、
「JAZZは黒人演奏者だけを雇え」
として、黒人ミュージシャンを優遇しました。
そこで大活躍した1人が”ルイ・アームストロング“でした。


一方、
ニューヨークでは、”オウニー・マドゥン“が経営していた『コットンクラブ』という会員制の高級スピークイージーが流行しており、
そこでは”デューク・エリントン“が第一人者として活躍していました。


さらに、
カンザスシティでは、なんと政治家である”トム・ペンダーガスト”が黒幕として、
全国禁酒法」関係無しにおおっぴらに酒場が展開されていました。
トム・ペンダーガスト“は醸造工場を持っており、
そこから酒を買わないと酒場を開業できない法律を作るなど、
やりたい放題でした。

そんなカンザスシティで活躍したのが、
カウントベイシー“でした。


このように、
南部のニューオーリンズで産まれたJAZZは、
北部の各都市で発展し、より都会的な音楽となっていきました。

禁酒法時代には、
スピークイージー』が最も仕事もあり、報酬も高かったことから、
マフィアとミュージシャン、裏の世界が主戦場な人種どうしが結びついて行ったのでした。

狂騒の20年代


そんな『JAZZ AGE』である1920年代は、
狂騒の20年代』とも呼ばれ、
社会芸術および文化の力強さを強調する時代であり、
アメリカ経済が大繁栄した時代でもありました。

音楽は”JAZZ“が花開き、
芸術は”アール・デコ“が隆盛し、
女性は参政権も得たことで自由を享受し、従来の”女性らしさ“から脱却した”フラッパー“なる生活スタイルが流行し、
文学は『グレートギャツビー』に代表されるようにきらびやかで、退廃的で、スキャンダラスなものが発展しました。

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▲フラッパーな女性

新たな価値観が多く誕生した時代であり、
大量生産、大量消費の時代の始まりでした。


経済的が繁栄すると人々は金銭的に豊かになり、
その為に堕落した退廃的な生活を送るようにもなりました。
その上、『全国禁酒法』で酒を禁じられていたために、
逆に酒に酔うことがイケているという概念が生まれ、
毎晩のようにパーティーや『スピークイージー』に出かけるようになった時代でした。

会員制の『スピークイージー』で、
音楽バーレスクを楽しみ、著名人と会話をすることが、
ステータスともなっていました。


そんな『狂騒の20年代』は、
1929年の大恐慌により、終わりを告げるのでした。


禁酒法の終わり


大恐慌により、一転して大不況に転じると、
徐々に禁酒法への風向きが変わりました。
酒類を合法化することで税金を集め、不況対策費に当てる必要が出てきたからです。
さらに、賄賂が横行し、警察が十分に取り締まりが出来ず禁酒法とは名ばかりになっていたこともあり、
国民からも禁酒法廃止に反対する人はいなかったです。

結果、
1933年に『合衆国憲法修正第21条』によって、『合衆国憲法修正第18条』は廃止されました。
(その後も州によっては、「禁酒法」が続いた州もありましたが。)


結局、
14年間の禁酒法は何をもたらしたのか?
これについてはさまざまな指摘、考察がされており、
これを見ていくこともまた面白いものです。

飲酒量は結果として増えたという指摘や、
アルコール依存症や肝硬変の患者も減らなかったという指摘もあります。
その一方で、
生産性の向上を掲げての禁酒運動であったため、
実際に経済が発展すると、禁酒運動の効果があったとする専門家もいました。

他にも、
暴力事件の増加や、もぐり酒場の登場、
ミキサーの使用やラム酒を使ったカクテルの発明、
女性のバーでの飲酒まで、様々な効用をもたらしたともいえます。


後からまとめて振り返ると、
信じられないような出来事だったりすることも、
渦中にいると意外にそれを受け入れて過ごしていたりするものですよね。

この禁酒法時代からちょうど100年後の今も、
同じようなことが繰り返されている気がしますね。
そして、
どんな状況もやり方と考え方次第で自身の状況を良くすることは出来ると思いますし、
その為に法律などは遵守するだけではなく、読み解き、利用するものだなと思わされますよね。

歴史は繰り返さないが、しばしば韻を踏む

まさにこれだなぁと思いますね。
今後も過去を学び、未来に生かしていきたいですね。

ではでは。

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