認知症のおばあちゃんと過ごした日々
初めてのnoteを書きます。
何を書こうか迷いました、迷った結果自分の言葉で過去の記憶とお別れをしたいと思い、タイピングを始めます。
要は書き殴りです、正しい言葉の使い方をできていないかも知れません。
では、、、
私のおばあちゃんは、広い家でいつも「可愛らしいぬいぐるみの形をしたロボットと過ごしていた。」
そして認知症を患った。
ロボットは決められた言葉を流すだけだった、おばあちゃんにとってはそんなロボットに愛情を持っていたんだと思う。
だけれど、脳や心はどんどんダメになってしまった。
愛情があれば認知症にならない、なんて思ってはいないがプログラミングされたロボットは人間同様の「何か」を持ち合わせていなかったんだと思う。
ある哲学者は「人間は孤独であるべきだ」と言っていたが、孤独は常に絶望と隣り合わせだ。
当時の私は小学生だったと思う、おばあちゃんが認知症になったので家族で引越しをした、そこから覚えているのは「介護をしている母の姿だった」辛そうに、介護をしている母を見るのは心が痛んだ。
だが今思えばなぜ小学生の私は、なぜ母の助けをしてあげれなかったんだろうか?
理由を考えればいくらか出てくるが、一つだけ言えるのなら「臭かったからだと思う」
そんな日常の中で私は、母が辛いのなら、、、、おばあちゃんの死を望んでいたのかも知れない。
かもしれないというのは、多分私の頭はカオスだったんだと思う。
なぜならおばあちゃんは私の父の母でからだ。
当時父も介護をしていたのかはあまり覚えていないが、父の母がなくなってからは毎日仏壇に手を合わせている姿をよく見ていた。
私は「母がおばあちゃんのようになってしまったら、、、」
現実と向き合えるのか分からない。
私の中で人間とは遺伝子の結果、前頭葉が発達したことで人間らしさを保てっていると思う節がある。
この考えが、いろいろな人を不快にさせることは承知しています。
私は怖いのです、遺伝子が死を迎えた人間のせいで今を生きようとする他人間が苦しむのが、いやその光景を見たくないのです。(どもまでも利己的なんだろうか・・)
確かに人は憐みの心がある、だがそれで自分が不幸になっては元も子もないのではないだろうか?
特に目的もなく、言葉を並べてしまったことを後悔してきている。
最後になんとなくまとめると。
・死者よりも今を生きる人に優しくするべきだろう。(決して当時、おばあちゃんがもう死んでいるとは思っていない)
・いろいろなことをロボットに任せる社会に漠然とした不安を感じている。
・安楽死についてあまり議論が交わされない、日本はこのままで良いのだろうか?
最後に結局お前は何が言いたいんだよ!
ってなると思います、ですが答えなんてないんですよね
過去の記憶だし、
多分この記事を読んだ人は、私に不快感を覚えると思う。
文章が下手であるとか、倫理的にどうなんだとか、結局お前が無責任なんだよとか。
まぁ謝るつもりはないんで、BYEBYE
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