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親愛なるヴァイオレット・エヴァーガーデン様

※以下、『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』、購入したパンフレット、舞台挨拶2回目の内容が含まれます。

※2020年9月20日現在、2回鑑賞した感想をまとめたものです。今後、追記する可能性もあります。

まずは関係者の皆様へ、『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を私たちに届けてくださって本当にありがとうございます。

私が初日に鑑賞した回はエンドロールが終わり劇場の明かりがついたら、自然と拍手が生まれていました。その場に立ち会えたこと、嬉しく思います。


他の選択肢がありえないハッピーエンド。

エンドロール後のヴァイオレットと少佐がゆびきりをしている姿に、こちらも笑みが生まれました。


そして、自分は肩を震わせて泣いていた、と気付いたのは帰宅してからでした。首と肩が筋肉痛のように痛く、それほど鑑賞中体に力が入っていたこと。泣いたことによって目と頭が痛いこと。
でもこれらの痛みは、『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を見届けられた生きている証だと、今この文章を書きながら思っています。


私はこの自粛期間中にアニメシリーズをDVDで観た、いわゆる新参者のファンです。
どうしてリアルタイムで観なかったのか、どうして外伝も映画館で観なかったのかと悔やむほど、この世界に惹かれていきました。

原作やそのほか設定集などを読んでいないため、ここからは映画の感想です。劇場版パンフレットは買いました。


予想の斜め上だったことが3つ。

1.時代が60年後から始まること
2.ヴァイオレットが躊躇いもなく海へ飛び込むこと(≒ポスターが海の意味)
3.ヴァイオレットが少佐へ「愛してる」を言わなかったこと

冒頭にアンちゃんの家が映りデイジーという女性が出てきてまず、「どうしてここから?」と単純に思ってしまいました。

思い返される感動の第10話。まさかデイジーがアンの孫娘とは。
そして「大事にしていた」と話し継がれる、ヴァイオレットが代筆した手紙たち。

アニメシリーズでも度々感じた【ヴァイオレット・エヴァーガーデン】というある種記号化された、神格化された、朝ドラや大河ドラマのように【語り継がれるヒト】としての幕があがるんだなぁと。
そしてその幕がどう降りてゆくのか、そこまでにどんなストーリーがあるのか。そんな、胸躍るはじまりでした。


アニメシリーズ最終話を観たとき、ヴァイオレットが今後も大佐とお母様と一緒に、ギルベルトを愛する者同士仲良くしていたらいいな…と想像していました。
なので、ヴァイオレットがギルベルトのお母様の月命日に出向いているというのはひとつ願いが叶っていて嬉しかったです。

大佐はどんな人物像で劇場版に登場するのだろうと思っていたら、パンフレットの言葉を借りると、まさに株が上がったお兄様でした。
ヴァイオレットには面と向かって名前を呼ばないのに(戦闘モードになったヴァイオレットを落ち着かせるため1度呼んではいますが)、再会したギルベルトには彼女を呼び捨てするあたりも、不器用な男性という印象を受けます。

ヴァイオレットは大佐と共にギルベルトを胸に抱え支え合って生きていくのではないかと、劇中のカトレアのように思っていました。

これはアニメシリーズ最終話でも感じたのと、劇場版のお墓でのシーン、大佐がリボンを届けてくれたときもです。
ですが、船のなかでのヴァイオレットは本当に少佐のことしか考えていないんだなぁと。あの表情を引き出せるのはこの世界にたったひとりしかいないんだなぁと、ひしひしと伝わりました。


ヴァイオレットが、大佐でもなく社長でもなく、少佐でしか得られないその「愛」の形はなんなのか。
これはアニメシリーズでも劇場版でも思いましたが、それこそ、言葉に出来ない無形なモノなのだと感じます。

ヴァイオレットたちは自動手記人形、感情を言語化するための立場です。
ですが、ヒトの根にある強く重く熱い感情は言語化が不可能なのだと、それをヴァイオレット自身が身を持って知っていくことはおもしろい矛盾だなぁと改めて思います。
そして、それこそが人間らしさなのかもしれないなぁと受け取っているところです。


ヴァイオレットは愛を知り、同時に醜い感情も知ったのでしょう。
だからこそ出た、少佐がいるかもしれない島へ行くときの「私は気持ち悪くないでしょうか」(セリフが曖昧ですみません)。

その言葉に、ヴァイオレットの心の分岐点であろう第10話の終盤を感じました。
ヒトに感情移入し、人間らしさを知っていくヴァイオレットがまさしく第10話だと思うので、だからこそ、今回この劇場版でのキーパーソンとしてアン並びにデイジーが出てきたのだろうな、と振り返っています。


そして、ユリス。
アンの母と同じ立場であり、大佐と少佐の兄弟関係の再確認であり、時代が進んだ象徴としての彼の存在は、ヴァイオレットにとっても忘れることのないお客様でしょう。
彼を思い帰路を決断したあの嵐の夜もまた、ヴァイオレットが仕事に、それはつまり他人と向き合った証拠だと感じます。

ユリスの登場により、劇中でアイリスが話していた「電話」への危機も対比で出てきます。
街はガス灯から電気になり、自転車はバイクになり、手紙は電話になる。
進化すること・未来へ進んでいくことを、どう受け入れ何を取捨選択していくのか。
生きる道を決めたエリカ。ホッジンズに、ヴァイオレットと大佐のことを助言するカトレア。過保護だと明言し、ヴァイオレットの成長を見守るベネディクト。
それぞれを象徴しているように思います。

ユリスの最期はとにかく泣けて、「かなしい未来」は彼の登場からわかってはいたものの、泣かずにはいられませんでした。
「想いを伝える形の多様性」をあの時間軸、あの時間で語ってくださる製作者の皆様に頭が下がるばかりです。
リュカは彼との時間を経て、誇りを持って生きていってほしいと願わずにはいられません。


ギルベルトの愛とヴァイオレットのそれは、もしかしたら形も意味も違うかもしれません。

ギルベルトは恋と同情と庇護欲と後悔をごちゃ混ぜにしたような。
ヴァイオレットは生まれたての雛のような刷り込み、ともすればストックホルム症候群に近いかもしれない。

それでもふたりは、ふたりで生きることしか選べない。
依存か執着か、はたまた名前のつけられない何かか。
(個人的には、小説『流浪の月』のふたりに近いようにも感じます)


ハッピーエンドだとは思っていましたが船が結構な距離を出てしまい、ヴァイオレットは今後少佐と直接会えるまで島に何度も通うのではないかとも思っていました。

なので、ギルベルトが彼女の名前を叫び、それにヴァイオレットが気付いた後なんの躊躇いもなく飛び込むシーンには驚きました。

あの名シーンは映画館という計算された場所で観るべき場面だとしみじみ思います。可能であれば、料金を追加してでも音響の素晴らしい映画館で。

それまでは武器かタイプライターを携えていたヴァイオレットが、全てを手放して海へ飛び込む。手元にあるのは、少佐からもらったブローチ。

「会いたい」「そばにいたい」「一緒にいたい」という感情を少しずつ脳と心で体感していったヴァイオレットが、言葉を超越した瞬間でしょう。
人それぞれ違うであろう「愛してる」の表現方法が、ヴァイオレットにとっては海を越え、陸にいる少佐の元へ行く。
アニメシリーズ第7話、オスカーの前で湖を飛んだよりも遥かにあるその行動力は、その原動力こそが、無意識で「愛」なのだと思うのです。


そして今作の挿入歌「みちしるべ」が、少佐へ宛てた手紙を読むシーン、ふたりが海上で再会する場面と1ミリの狂いもなく流れます。

アニメシリーズではエンディングソングだったこの曲が今作で挿入歌だった意味が、この名シーンのために作られたんだとはっきり感じました。
そして、このシーンを観てからこそポスターを見直すと、胸が締め付けられるものです。


花火は、ギルベルトとヴァイオレットへの祝祭。
同時に、明確な会話を交わさない(私たちに教えてくれない)キャラクターたち、特にホッジンズの「ヴァイオレットちゃん」と言ったであろう振り向いたさみしさもまた、未来へ進んでいくひとつだと思うと、悲しいですね。

もっと彼ら彼女たちと一緒にいたいと願う私たちを、乱暴な言い方をするならば置き去りにして、未来へ進んでいくのでしょう。


島に住んだヴァイオレットは、あれから少佐のことをなんと呼び始めたのかなぁと妄想しています。
「少佐」と呼んでも「もう違うよ」と言っているのでしょうか。【「ギルベルトさん」か「ジルベールさん」と呼ぶの…?】と少女漫画脳になってはにやにやしてしまいます。


素になったギルベルト・ブーゲンビリアと、ひとりの少女ヴァイオレット・エヴァーガーデンがどんな人生を過ごしたのか。
まさに、想像の余地がある終わり方で、知りたいけれど、妄想しがいがあるなぁと。


ヴァイオレットは『永遠』だと、デイジーは私たちに教えてくれました。

切手となり、ユリスの教えてくれた親指をあげるポーズを島に定着するなんて。

それは同じくらい『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という物語が永遠の不変だと、物語を見届けた私たちも思い続けるのだと思います。


1度目に観たときわからなかったのが、デイジーがお話していた元局員さん。受付にいたどちらかの女性だとは思うのですが…。
と、9月18日に思っていたら、翌日の舞台挨拶の1回目で彼女が「ネリネ」だと監督からお話があったそうですね。答え合わせをしていただけて、記事を読んで嬉しくなりました。


そして私は、舞台挨拶2回目の上映付きを観賞しました。
その際、もちろん演者である石川さんと浪川さんの作品に対する熱さが伝わりましたが、何より石立監督の言葉ひとつひとつにとても重みを感じました。

エンドロールに流れていくサポーティングスタッフ、スペシャルサンクスを見て頭に過ぎったのは、言わずもがなあの事件です。

京都アニメーションの作品は『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』以外にも鑑賞したことがあるので、あの事件には心が痛みました。
おそらく京アニに触れたことのある多くの方が忘れられない出来事でしょう。

石立監督自らが壇上するなかでお見受けした微かな震えと緊張感は、京都アニメーションに関わる全ての人と共にこの公開日を迎えられたという嬉しさと、私たちには到底想像のできない想いがあるのだと受け取っています。

ここまで辿り着くのに、どんな想いと痛みを抱えてきたのか。

皮肉にもそれは劇中のヴァイオレットに重なり、そしてそれは、当人たちにしかわからない感情。
受け手である私たちが京都アニメーションの名を汚さないためにも、作り手の皆さんが未来へ向かっていけるよう真摯であり続けたいと、今作でさらに強く思うようになりました。

2回目の舞台挨拶で監督がおっしゃっていたことのひとつに、「ヴァイオレットがギルベルトへ宛てた手紙の最後の一文でギルベルトは走り出した。けどそれは、ヴァイオレットの言葉で流れていない」と。
石川さん、浪川さん、台本を頂いたというTRUEさんも、「それは台本には書いてある」とおっしゃっていました。

「ありがとう」で埋め尽くされたあの手紙の最後に、一体なにが書いてあったのか。
意固地になっていたギルベルトを動かした言葉は何なのか。
言葉の刃が飛び交う昨今、そのあたたかいであろう言葉の答え合わせを、いつかの未来で聞けたらいいなぁと思っています。



愛を知る少女の物語、「あいしてる」を知りたい人間の生き様と謳いながら、パンフレットの最後、原作者である暁佳奈先生の言葉にハッとしました。


「貴方が何処に居ても、誰も愛していなかったとしても、貴方を応援している。」

「明日からも元気でいて下さい。貴方の人生を生きて下さい。」


ヴァイオレットは少佐と再会し、あの島で生きていくことを決めました。
これはもちろんヴァイオレット・エヴァーガーデンというひとりの少女の物語であり、劇場版としての完結です。
ヴァイオレットはずっと、少佐を探していました。求めていました。会いたいと願い続けていました。
これは彼女の人生であり、物語を見届けた私たちは、「ヴァイオレット、よかったね」と思うことでしょう。

ですが、この現実に生きる私たちは、果たして彼女のように強い気持ちを向けたいヒトがいるのでしょうか。もちろん気持ちの強さに上下はつけられません。
親子、夫婦、恋人、パートナー、友人、同僚。
たくさんの人間関係に挟まれ、私たちは疑問を持つことなく「誰かと生きること」を強要されているようにも感じるのです。
「番」になるべきだと、「誰かと共に生きていかなければならない」のだと、それが自然であり、必然のようにも感じる違和感。


ヒトは、もちろん、ひとりでは生きていけません。
じゃあ何でこんなこと言い出すんだと、そんな感想を抱く人もいるかと思います。
それでも書きます。


私たちはそんなにも、「誰かを愛さないと生きていけない」のか。
「納得してひとりで生きていく選択に、責められなくてはいけない」のか。
「結婚やパートナーを得る人生でないと、社会的に認められない」のか。


「愛」を知りたくて、探して、踠き、辿り着いたヴァイオレットにはなんの狂いもないハッピーエンドが訪れます。
まさに劇中の、「信じて願い続ければ」のゴールです。

そんな「愛についての物語」を創ってくださった暁佳奈先生からの「貴方が何処に居ても、誰も愛していなかったとしても、貴方を応援している。」という言葉はまるで、頭を鈍器で殴られたような感覚でした。
しかも、パンフレットの最終ページに。

この一文により、「愛」を感じました。

愛を、感じてしまいました。

すべてのお客様を包み込み、そして、自分が主人公の物語へ進む勇気をもらったように思います。

誰かと共に生きることだけが人生じゃない。
自分の人生の主役は自分である。

狂いないハッピーエンドのヴァイオレットとギルベルトですが、パンフレットの暁佳奈先生のメッセージで、よりこの『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という物語の幕が降りたように思います。


矛盾こそ、言葉に出来ない。
言葉に出来ないから、人間味が生まれる。
そしてその人間性と向き合いながら、言葉を紡ぐ。


ヴァイオレットとギルベルトのラブストーリーとも思える今作品ではありますが(実質ラストの描写だけ見ればそうなっていますが)、「仕事に対する熱意」「未来へ進む力」「変化に向かう取捨選択」。
「伝えたい人に、自分の想いを伝えること」の難しさ、大変さ、尊さ、愛しさ。
さまざまなテーマが織り交ぜられながら、それでも先生は、「愛している人がいなくても、貴方に生きていてほしい」と綴る。
この矛盾であり不合理、ストーリーの本筋から反するかもしれない一文もまたすべてに繋がっているんだと思わずにはいられません。


私にはヴァイオレットのように、命を賭けてでも大切な、全てを投げ出してでも愛するような人は、いません。
だからといって、ラブストーリーものに妬みや僻みはありません。キャラクターの心情、親心を持っては「よかったねぇ」と思うタイプです。

暁佳奈先生の言葉があってやっと、「愛する人がいる」というマジョリティの存在と同じくらい、「他者と生きられない」マイノリティが、『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』に参加できたように思います。
(比較するため対比にしていますが、実際どちらがメジャーでどちらがマイナーなのかは私にはわかりません)


これもひとつの、愛の形でしょうか。


男女のハッピーエンドを迎えた瞬間、「これは僕・私には程遠い物語だった」「少佐の死を受け入れ未来へ進むヴァイオレットが観たかった」など、もしかしたら思う人もいるかもしれません。


でもそんなとき、パンフレットの先生の言葉を反芻すると見方が変わるように感じます。この一文を読ませていただけただけでもパンフレットを買ってよかったと、心から思うのです。


上映期間中、私はきっとまた『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の物語へ何度か飛び込みに行くのだと思います。


碧い瞳の女の子…出会ってくれてありがとう、と精一杯の、愛を込めて。


同じ気持ちの方に出会えると幸いです。