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【映画考察】『悪は存在しない』では、なぜ「悪は存在しない」のか。

★★★★
さすが濱口竜介監督だなあ、という言葉に尽きる。映画全体が、美しく静かな背景と、脆く緊張感のある前景(≒人間たち)で構成されていて、どのカットにも絵画的な美しさが宿るとともに、そこに刻まれるドラマが観客を強烈な“居心地の悪さ”へと駆り立てる。ものすごく濱口監督らしい作品だと思う。

『悪は存在しない』
監督:濱口竜介
出演:大美賀均, 西川玲, 小坂竜士, 渋谷采郁
上映時間:106分
日本公開:2024年4月26日

▶︎あらすじ

長野県、水挽町(みずびきちょう)。自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。代々そこで暮らす巧(大美賀均)とその娘・花(西川玲)の暮らしは、水を汲み、薪を割るような、自然に囲まれた慎ましいものだ。しかしある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものだったが、森の環境や町の水源を汚しかねないずさんな計画に町内は動揺し、その余波は巧たちの生活にも及んでいく。

『悪は存在しない』公式ホームページより

以下、ネタバレを含みます。

▶︎選び抜かれた“シーン”

リアルサウンド映画部(サブチャンネル)(Youtube)より

この映画のまず突出している点は、驚くほど“シーン”が少ないということではないか。なにか事件が起こるシーンあるいは物語が展開するシーンが、片手で数えられるほどしかなく、「地区長宅での夕食」「グランピング説明会」「東京の事務所」「車内での会話」「蕎麦屋での説得」などが挙げられる。この映画では、基本的には「水挽町」と「東京」が接触する瞬間に事件が起きて物語が進む。

それら以外は基本的にはただ「営み」としてあるいはただ「時間の流れ」として、映画に刻まれているような感覚がある。主人公の巧が、薪を割り、水を汲み、娘の花とともに森の中を歩く。こうした「森の時間」が徹底されていて、そこに導くためにこそ、あのファーストカットがあると思う。僕らは森のなかを歩く巧や花の身体感覚と時間感覚をあのカットから感じ取る。その下準備があるからこそ、劇中で描かれる「東京(都市)の時間」に違和感を感じるのではないか。本来はその「都市の時間」で生きているにもかかわらず。

そしてその「森の時間」のなかで花は姿を消してしまうからこそ、その失踪の瞬間は“シーン”として描かれず、“いつのまにか”いなくなっていて、夕暮れへと向かう「時間の流れ」としてその捜索劇は描かれる。本来であれば、この映画最大の“事件”にも関わらず、それは“事件”としてではなくてある種の“摂理”のような印象すら受ける。娘の迎えをいつも忘れる巧、一人で森の中を彷徨う花、そして遠くから響く銃声。そのどれもが「危うさ」を予感させていたからだろう。「森の時間」にこそ潜む危うさを。

このような「森の時間」の流れのなかで、あのラストシーンが唐突に、その時間をぶった斬るように現れるから、僕たちはあの光景に衝撃を受けるのではないか。おそらく、それも計算された演出。もし花の失踪が“シーン”として“事件”として描かれていれば、その当然の帰結(論理的にではなく感情的に)として、あのラストシーンを事後的にであれ予感する余地があったように思う。しかし、濱口監督はそれを許さなかった。

徹底的に“シーン”を厳選することで、表面化しない、あるいは言語化されない「時間の流れ」とそこに宿るであろう「人間のドラマ」を濱口監督は描ききったのではないか。たとえば、巧が内に秘める心の表情はほとんど最後まで明かされることはない。おそらく劇中で大きく変化しているであろうその心境を、僕たちは“感じる”ことしかできず、決して”知る”ことはない。

でも、人間が生きていくというのは、そういうことのような気もする。「私は怒っています」「私は悲しんでいます」と声高々に表明する人はあまり多くない。だからこそ、そこに薄氷のように危うい人間関係が築かれていて、どの瞬間にそれが割れて関係性が破綻するかはわからない。それはまるで、本来は人を攻撃しないはずの野生の鹿が、突然牙を剥くことがあるように。

この映画が観客へと伝える最大の「感情(の変化)」は、数少ないシーンで描かれる芸能事務所関係の人々のものでも、説明会で怒りを露わにする町民のものでもなく、決して描かれることのない巧のそれであることは明らかだ。だからこそ、我々はそうした「語られない感情」を抱えて生きているということを思い起こさずにはいられない。

▶︎そこにはずっとイライラがある

リアルサウンド映画部(サブチャンネル)(Youtube)より

この映画にはとてつもない密度で「イライラ」が描き込まれている。しかもそれらの「イライラ」を劇中の人物たちはほとんど指摘しない。ただ観客が、それぞれの視点に立って「イライラ」するかどうかを問われ、その先に「破綻」「衝突」を予感するほかないのだ。まるでプレートが歪み続け突然大地震を起こすように、その圧縮され溜め込まれたエネルギーを、この映画はそう易々と発散させてはくれない。

具体例を挙げるとキリがないのだけれど、代表的なものをいくつか。まず1つは、主人公・巧の話し方だろう。彼の発話は、タメ口でぶっきらぼうで、極めて少ない言葉でしかなされない。おそらく“そういう話し方の人”であるだけなのだけれど、普段敬語に慣れてしまっている人々にとっては、どこか危うげで他意があるように感じなくもない。常に敬語で話す「東京の人々」との対比が明確になればなるほど、「東京の人々」が感じているかもしれない「イライラ」が画面を緊張させていくような気がする。

そして次は様々な身体所作が挙げられるだろう。たとえば、説明会で一番怒りを露わにする青年は、彼自身にまったく悪気がなかったとしても、金髪にだらしのない服装からその所作が“悪態”のように見えなくもない。これが、スーツ姿のサラリーマンや、きちんとした身なりの老婦人であれば感じ方は当然異なるだろう。そしてそれに呼応するように、説明会の最中に芸能事務所の高橋が腕を組んだり水を飲んだりするのもまた、意図的に挟まれる「イライラ」の予感なのだろう。

そのほかにも細かい「イライラ」の予感が張り巡らされている。オンライン会議をなぜか車内から参加するコンサル、説明会でいまいち煮え切らない高橋と黛、そして娘のお迎えを忘れ続ける巧。でも、彼ら彼女たちからすれば、きっとそれはなんの“悪”でもなくて、もしかしたら「急に呼び出やがって」と車内でコンサルは思っているかもしれないし、高橋と黛もまたグランピングには疑問を思っているわけで、巧もきっと“忘れっぽい人”なだけなんだろう。

つまり、ここに書いたような「イライラ」の予感を僕は感じてしまったが、きっとそこにも偏見がある。僕が「イライラ」の予感と思うだけであって、そう思わない人もいるに違いない。

だからこそ、「悪は存在しない」のではないか。なにをもって「悪」というのかは、極めて主観的で、「私は悪いと思う」以外のなにものでもないのではないか。そこに「社会の常識」や「法律や制度」といった客観を装っている「善悪の判断」が介入しようとするけれど、それもとどのつまりは主観的なものでしかない。濱口監督が描こうとした「悪は存在しない」の僕なりの解釈である。

▶︎本当に“衝撃のラスト”なのか

リアルサウンド映画部(サブチャンネル)(Youtube)より

そして、そのことが、あのラストシーンへと繋がっていく。花を探している最中、主人公の巧は突然同行していた高橋の首を絞める。高橋はまるで観客の気持ちを代弁するかのように疑問の声を上げる。ジタバタともがく高橋を淡々と締め続ける巧。高橋は口から泡を吹き、次第に動かなくなる。レビューやSNSで「衝撃のラスト」と語られるシーンだ。

たしかにここまで書いてきたように、巧の内面がほとんど描かれてこないことで、ある意味では「衝撃のラスト」と言える。映画全体に満ち満ちていた「危うさ」や「不安」が、こういう形で結実するのかと驚くのも無理はない。ただ同時に、その「予感」はあった。この「なにかが起きるという予感だけがある」という空気を作るのが濱口監督は天才的に上手い。これまでの作品に通底している“らしさ”はこの「予感」だと僕は思う。

ただ鑑賞後に振り返ってみると、このシーンに繋がる明確な伏線が1つある。それは、グランピング場が鹿の通り道になっているということを車内で会話するシーンだ。そこで巧はこう説明した。

「野生の鹿が人間を襲うことはない。(中略)あるとすれば、半矢(手負い)の鹿かその親だけだ」

(うろ覚えですが)

こう語るシーンですごく印象的なのが、巧の顔にかかる光の陰影だ。西陽がさしているのか、巧の顔が急に明るく照らし出されたかと思うと、次の瞬間には影になって暗がりに潜み、光と影の境界に巧が立っているという印象が映像から伝わってくる。巧は説明会で「誰もまだ賛成でも反対でもない」ということを述べた。彼の中立性、その極めて危なく揺らぐ天秤を陰影を持って表現したのではないか。

そして、花を探していた巧と高橋は、「時間の流れ」から独立したかのような印象を受ける霧の立ち込めた亜空間のなかで、おそらくは横たわる花を発見することになる。そのシーンでは、半矢の鹿とその親が生命を奪われた剥製のような非現実的なイメージとして花の前で屹立し、親の目線はただまっすぐに巧へと向けられている。その眼のなかに、巧は自分を見たのだろうか。そして巧はまさしく「半矢の鹿の親」となって、人間=高橋へと牙を剥いた。それは理性的な判断なのではなく、「森の時間」を生きる巧の野生的な本能だったのではないか。

おそらくではあるが、観客の多くが車内における「半矢の鹿とその親が人間を襲う」という話を聞いたときに、「無理もないな」と思ったのではないか。自分の生命を、あるいは我が子を守ろうとする鹿の苦しさを思ったのではないか。

では、それが人間になるとどうだろうか。自分をあるいは我が子の生命を守ろうとする人間が、その周囲にいる人間に牙を剥くことは本当に「悪」なのだろうか。たしかに巧の行為は「社会の常識」や「法律や制度」といった観点で言えば「悪」であり、「衝撃のラスト」に違いない。ただ、たとえばそれが自然においてはどうだろうか。仲良く森で暮らしていた鹿の親子が、あるとき突然子鹿が手負いになって、親鹿が人間(≒他の存在)を攻撃して終わる。そう聞くと、この瞬間のどの森のなかでも行われている自然のように思われないだろうか。

あるいは人間の世界でだって、たとえば「戦争」においては、勝てば官軍と言わんばかりに「殺し」が正当化されるではないか。そんな状況が今まさにこの現代においても、地球上で繰り広げられているではないか。

いったいなにをもって「悪」と判断するのだろうか。
その問いにこそ、「悪は存在しない」というテーゼが響いてくるのではないか。


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