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言葉を持たない評や感想について(プレイリストとか本棚とか)

選評という言葉があるけれど、選ぶということ自体がある種の評なんじゃないかということを少し思う。あるいは、感想なのではないかと思う。

ひょう【評】
〔物事の善悪・可否などを〕いろいろ論じたもの。批評。
(新明解国語辞典第七版)
批評。
(三省堂国語辞典第七版)
ひひょう【批評】
物事の良い点・悪い点などを取り上げて、そのものの価値を論じること。また、そのもの。
(新明解国語辞典第七版)
よい点や悪い点を取り上げて評価をのべること。
(三省堂国語辞典第七版)
かんそう【感想】
ある事柄について感じた事(が、発表出来る程度にまとまったもの)。
(新明解国語辞典第七版)
見たり聞いたりしたことについて、心にうかぶ感じ。
(三省堂国語辞典第七版)

「選ぶことがある種の評、ある種の感想」というのは言葉遊びにすぎなくて、選ぶことそのものは、ここに書いてある通りのものではない。

しかしながら、選ぶという行為は、ときに、それが自分にとってどんな価値を持っているか位置付ける行為を含んでいる場合があると思う。
例えば、音楽機器等で、「夏」というプレイリストと「恋」というプレイリストをつくっている人がいるとする。
その人が好んで聞く曲で、夏が舞台の曲があったとして、その人は全部「夏」というプレイリストに入れるわけではないと思う。夏が舞台の曲でも、「恋」というプレイリストに選ばれることもあるし、明示的に夏が舞台になっていない曲なのに、「夏」というプレイリストに選ばれることもあるかもしれない。

そういう意味で、楽曲のプレイリストは、その人の中で楽曲をどのように位置づけているかを示す一つの指標になると思う。
それは良し悪しを述べるものではないが、一つ一つの楽曲をどのようなものとして評価しているか、そこからどのような感じを受け取ったのかを雄弁に語っている。

わかりやすい例として「夏」や「恋」というタイトルのプレイリストを想定したが、これは「プレイリスト1」「プレイリスト2」でも変わらない。
その人にとって、プレイリスト1に選ばれる曲とプレイリスト2に選ばれる曲は異なった評価が与えられていて、むしろ「夏」や「恋」以上に、その人がわかりやすく言語できない評価や感じ方が詰まっている可能性が高い。

本棚なんかも似たような性質を持っていると思う。
本には物理的な制約があるので、そういう都合も加味されるだろうが、それだけで本が置かれる場所は決まらない。本棚の同じ段にどんな本を置くか、仕切りの左と右にどんな本を置くか、あるいは本棚を複数所有している場合、どの本棚にどんな本をに置くか。
そこには、その人がその本をどう位置付けていて、その本のどの部分を重視しているかが潜在的にあらわれる。その本から受け取った感情が、近いのか遠いのかがあらわれている。
あるいは、各種ブラウザや投稿サイトのブックマーク(お気に入り)機能も、同じような役割を果たしているかもしれない。
実際、私のブックマークには「らららら」「りりりり」「るるるる」「れれれれ」「ろろろろ」のような、無意味な文字列のフォルダがいくつか存在する。どのページをどのブックマークに入れるかというときに、私は無意識に(あるいは意識的に)選択を行い、そこにはそのページへの何らかの評価が伴うことになる。


最近、さまざまな形で「感じたことや想ったことを言葉にすることの大切さ」について語る人を見る。あるいは、「最近の人は語れなくなっている」とか「SNSの意見に影響されて自分の意見を持てなくなっている」という意見を見る。
それが事実なのか。よくわからない。
ただ個人的には、言葉にならない形であらわれている評や感想、敢えて言葉にしない人が抱いているものもについて考えてみたい。そういうものがあらわれる一つの空間として、音楽のプレイリストや本棚、web上のブックマークというものをとりあげてみた。
もちろん、誰かが自分の抱いているものについて言葉にしたいと考えたり、それを伝えたいと思うとき、言葉にできる能力があったら素晴らしい。また、他の人の考えに呑み込まれないように言語化できるとすれば、それは凄いことだ。
ただ、個人的な意見を言うのなら、人が思っているより人はいろいろなものをちゃんと胸に抱えているのではないかと私は思う。言葉にすることの大切さを叫ぶときに、言葉にならないものを見過ごしてしまうのであれば、それはなんだか悲しいことではないかと思う。

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