最後には知性と愛だと思っている

音江さんが私の先日の記事を話題にしてくださいました。ありがとうございます。

二つ、そうか、と思いました。

会えなくて寂しいということ

1つ目。会えなくて寂しいということ。

私が「自粛を祭にしてはいけないたった一つの理由」を書いたのは4月6日。書いた時には、寂しいとは思っていなかった。悲しいとも、やりきれないとも、腹立たしいとも思っていなかった。今思えばそれは一種の防衛反応だったんだろう。

記事を書いた翌日に、心が壊れてしまった。

4月8日の日付で下書きに入っているnoteに、自分がどうなったのかちゃんと書いてあって面白い。

昨晩急に心がめしょめしょになった。びっくりした。
(中略)
何を言われても緩慢にしか頭が動かない。言いたいことがなく、やっと言いたいことが出てきてもうまく言葉にならない。よく返事ができない。身体を動かすのもすごく遅い。ともすると床に座り込んでしまう。
怒ったり悲しんだりしているわけではない。もしくは感情のセンサーが壊れている。本当は怒っているのかもしれない。悲しんでいるのかもしれない。わからない。

その後、この災害で(騒ぎとか騒動とか新型コロナウイルスの流行とか、言葉を考えたけど、災害、がしっくり来たのでこう書く。新型コロナウイルスの流行自体に加え、それに伴う社会の変化、日常の変化がかなり大きい)私にどんなダメージがあったのか検討した。えらい。それでだいぶ回復した。今は元気。

日常に変化を余儀なくされたら悲しい。人に会えなかったら寂しい。家から出られなくなったら気が塞ぐ。そりゃそうだ。それが自分の意志でないことに怒りも覚える。論理立って具体的な怒りではない、わがままのような怒りだ。だって、私のある部分は、感染症の流行に対してエビデンスに基づいた対策を社会全体で講じられることを喜ぶべき進歩だと思うし、一線で奮闘される方々に深い尊敬と感謝を覚えていることも本当なのだ。(いくつかの偶然が重なっていれば、私も今病棟で人工呼吸器の患者さんの受け持ちになっていたかもしれない。)

昔は「『会いたい』と『寂しい』を混同すると人が死ぬ」とよく言っていた。まあ、「人が死ぬ」というのはおおげさで、適切には「『会いたい』と『寂しい』を混同してはいけない」ぐらいのことだ。
10年くらい前、私の恋人は遠くに住んでいた。遠距離恋愛というやつだ。
「寂しい」気分に、しばしばなった。けれど、「寂しい」という気持ちを「会いたい」にすり替えてはいけなかった。だって会えないんだから、寂しいと思うたびに会いたがっていたら、不満が溜まって関係が悪化するだろう。私は、「寂しい」という漠然とした「気分」を、「会いたい」という具体的な「欲求」にすり替えてはいけないと考えた。「寂しい気分」には、恋人に会う以外の方法で対処して自分をなだめる必要があった。どうやっていたのかはもう忘れてしまったが、たぶん自分で自分とデートするとか、図書館で好きなだけ棚の間を歩き回るとか、ニコ動でMMDを見まくるとか、そういうことだ。

でも今は、会いたくて寂しい、で正解だと思う。順序が逆なわけだ。会えないことが先にある。会えなくて寂しい。

先日この記事を読んで、そうですね、と思った。

「出社が大好き」な人間にはソーシャルディスタンスは難しい
https://blog.tinect.jp/?p=64616

元来の人間が、群れて毛づくろいコミュニケーションをする生物だったことを思えば、ソーシャルディスタンスという毛づくろいコミュニケーションを封じてしまう状況も、これはこれで長期化すれば私たちのメンタルの重荷になってくるでしょう。

その重荷を軽くするためにさまざまに工夫し、なんとか、この難局を乗り切っていきたいものです。

人は、人と近寄れないこと、人と集まれないことに慣れていない。
この災害が起こる前、私は比較的一人で過ごしていても大丈夫だと思っていたけれど、それでも小さくないダメージを受けている。戸惑い、無力を感じ、悲しくて、寂しい。

それは当然のことだ。そう思えるだけでも、冷静に対処できる。寂しさにパニックになる必要はない。寂しくてよいのだ。

何とか、自分の心を支えてやっていかねばならない。チャットをしたり通話をしたり、文通をしたり。
たぶんそれは、他の誰かの心を支えることにもなる。だって誰もが人に会えないんだから。それが救いかもしれないな、と思う。自分のために誰かを使っているわけではない。私たちは分け合う。違うけど同じ寂しさを、個別だけど共通する孤独を。

COVID-19の流行に関する長期的な見通し

2つ目。COVID-19の流行に関する長期的な見通しについて。

COVID-19についてあんまり専門的なことは書かないけど(正確な情報発信が難しく、自信もないので)、医学の情報発信って難しいんだなあと感じたのだった。

ウイルスには緊急事態宣言なんて関係ない。国境も、人種も、信仰も、職種も関係ない。株価の暴落も企業の倒産も関係ない。医療現場が悲鳴をあげようが、関係ない。それは、私たちが「もういいよ!」といくら思っても、関係なく流行を続けるということだ。

COVID-19の流行がどんな道筋をたどるのかは、一人ひとりの行動にかかっている。

今、私達はサイエンスの知見の上に生きていられる。さっきも書いたけど、私はそれを僥倖だと思う。
でも、知見そのものでは社会を動かすことができない。
知見を、人々に理解可能で行動可能なメッセージに置き換えなければならない。これは必ず誰かがやらねばならないんだけど、難しい。医療コミュニケーション、とかの分野になるんだろうか? 正確な知識を、理解可能で行動可能なメッセージに"翻訳する"ことは特殊技能なのだ。(これは本当に、とても難しい。)

そしてそんなメッセージが作れたとして、どうやって人々に伝達するのか、今たぶんその方法が確立されていないのだ。

それをもどかしいと思う。私は、家族とか同僚とか身内とか、そういう狭い範囲の人に、現状や対応策や今後の見通しを私の言葉で伝えて、過不足ない恐れと行動に導けるようにやっているつもりだけれど、それでも難しいなと感じている。でも、やめるわけにはいかない。私は手の届く範囲のことしかやらないというのを当面のポリシーにしている。手の届く範囲内のことに手を抜くのもまたルール違反なのだ。

それで、どうする?

正確な知識に基づき、思いやりをもって行動する、というのが私の暫定的な方針である。

この記事を書いて改めて思ったが、特定分野に危機が起きた時、それに対応している専門家の言葉を、正確に理解して自らの行動に反映させることはほぼ不可能なくらい難しいのだ。(3.11の原子力発電所事故を思い出した。)それができる人は「専門家」の側なのだ。

たまたま医療は私にとって親しいものだから、この災害について、どこで正確な情報を手に入れようか、何が信じられるかを考えることや、現状と今後の予測について自分の意見を持つことができる(あくまで個人の意見だが)。国の最新の方針を追い、自分の行動に置き換えることもそれなりにできる。

それを知性による行いと呼ぶ。

そして、信頼できる医療的な情報を追うだけでは不足する部分もある。
寂しいと思う気持ち、とか。不安に思っている知人にどう声をかけたらいいか、とか。
そういう時、知性による振る舞いだけではなくて、思いやりをもって行動する。やってはいけないことは勧めないけど、できる範囲で可能なことを伝える。考える。実際にやってみる。

それを愛による行いと呼ぶ。

知性と愛、両方ないといけない。それを届けられる範囲がごくごく限られていてもよい。こう長期の闘いだと、まず心身を健やかに保ち正気でい続けることが最重要だと思うし、それにはでかい目標はそぐわない。心を折りに行かない。できることを。少しずつ。

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