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父と戦争

父は1927年、昭和2年の生まれだ。まさに昭和が始まってすぐに生まれて、昭和の「昭」の付いている名前をもらった。
太平洋戦争時は14才~18才という事になる。まさに青春のど真ん中な時期だ。
正直、母とほどは父の戦争時代の話は聞いていないので多くは語れないけれど、今は亡き父を思いながらわずかながら聞いた話を書いてみようと思う。

父は戦時中の少年として当然のごとく軍隊に入った。もしかしたら平均よりは少し遅かったのかもしれない。というのも父が長男、というより一人息子だったからだ。
父が入ったのは海軍、霞ヶ浦の予科練だった。これは父にとって、それほど嫌ではない事だったのではないかと思っている。
というのも、父は本当は理系に進みたかったのに、実業学校に入らなくてはいけなかった。家が商科という事でもないのだが、月謝の都合だったのかなんなのか。しかし図面やグラフの線を描いたりが好きだったし、飛行機の落書きなどもしていた父にとっては、予科練に入り飛行機乗りになる、という道の方が、実業学校で算盤をはじくよりは好ましいものだったのではないかと思うからだ。
もちろん他の若者と同じく、お国の為に戦うのをよしとする愛国青年でもあっただろうし。

父が予科練での訓練での後、行った先が長崎だった。
故郷を離れ家庭の暖かさを味わえない父のような若い軍人らを、休暇時に一般家庭に受け入れてあげよう、というボランティア?のようなものが当時あったらしく、まさにそれを、我が母の実家が引き受けていたのだ。
親戚に海軍の職業軍人もいたようなので、その縁だったかもしれない。
そんな母の実家に休暇にやってきた若い海軍の若い軍人らの中に、父もいたのだった。

当時の母は父らにとっては恋愛の対象にもならない子供だっただろう。
父たちもまだ高校生ぐらいで、恋愛以上に久々に味わう家庭料理やくつろげる部屋がありがたかったに違いない。
母に言わせると、当時の海軍さんは真っ白な制服で、カーキ色の陸軍と違ってカッコよく人気があったとか・・・そんな海軍の若い軍人さんが今も昔も女子高生なんてものは、今も昔もそれほど考え方は変わらないのかもしれない。

そんな心安らぐ時間はあったにしろ、もちろん軍人なので、いつも死とは隣あわせではあった。
父たちは飛行機乗りだったが、当時はもう戦闘ではなく特攻隊として敵に突っ込むのが普通になっていたようだ。
聞いた話だと、やはり長男や一人っ子は後回しにされていたらしく、それでうちの父は後回しにしてもらっていたのかもしれない。さらには、戦争末期には乗る飛行機の数も少なくなっていた事もあったのだろう。
父の仲間たちにはもちろん、特攻隊となり亡くなった方々も少なくはなかったようだが、様々な要因のお蔭で、父は戦争では死なずにすんだ。
どちらかというと生き延びた父の方が少数派なのかもしれない。
そして、長崎に原爆が落ちた4日後、昭和20年の8月15日に戦争は終わる。
その時どこにいて、どうやって戻ったのかはわからないが、父は故郷の東京に戻った。
普通なら母との縁もそこまでだったはずだが・・・。

父は真面目な性格で、祖母もとてもマメな性質だった。
戦後も父は祖母にお礼状やら季節の便りを書き、祖母もそれに返事を書いていたという。
そんな父に祖母は、次女である母をもらわないか、と声をかけたのだ。

実は戦争でなんとか生き延びた父だったが、戦後になり結核にかかっていた。
当時、結核といえば不治の病だった。父も家族も当時は死も覚悟していたようだが、運よくペニシリンという新薬のお蔭で、またもや生きながらえる事が出来たのだった。
一命をとりとめたものの、手術もして、肺と肋骨も数本切りとり、後にではあるが身体障がい者手帳ももらっていた、
幼い頃から見ていた父の背中には、肩甲骨に沿って大きな手術の後があり、回復したとはいえ肺の切除もあって、その機能も低下していて、肺活量が少なく、坂道や階段を上るのもキツそうだった。
そんな、ある意味キズモノだった父、しかもなんとか夜学で大学に通ったような状況で、経済的にも豊かとは言い難かった。

祖母はそれでも、真面目そうな父のことをとても気に入っていた。
母の姉も結核だったので、父の病気のことはあまり気にしていなかったのようだ。
飲んべえな亭主(祖父)に苦労していたので、ちょっと頼りない次女にはしっかり真面目な人がいい、と、父に白羽の矢をたてたようだった。
その時の父や母の心境はわからないが、そうして父と母と昭和31年に結婚することとなった。
子供の頃とかは深く考えていなかったが、考えてみれば父は29才。
終戦からほぼ10年経っていたわけで・・・ある意味、父母は10年もの長い交際期間があったという事にもなる。
そんなわけで、父と母は同じ戦時中の思い出を共有していて、自然に当時の話等も我が家ではかわされていた。
きっと他の家庭より多分そういった話題も多かったはずだ。
同じ母の家に行っていた仲間の名前も良く出ていたが、その中には亡くなった人の話題もあったように思う。

私の友人の中には、自分の父親が軍隊にいた時の事を決して語らない、という人も少なくない。彼らが壮絶な苦労や体験をしてきて、それをあえて語りたくない、というのも想像ができる。
うちに父は、前述のように飛行機乗りに憧れて入った予科練だったし、戦争では生き延びてもいた。仲間の死もたくさん体験していたろうが、その多くが特攻隊ということで、その死にざまを直接目にする事もほとんどなかったかもしれない。
軍隊の同期会がよく開催されていたが、父はそれに参加し、かつての仲間と泊まり、宴会等もしていたようだ。普段は飲みにもいかない父だっただけに、やはりそこは特別な場だったのだろう。一緒に参加していた多くの同僚らも、父と同じような感覚だったのかもしれない。
読書好きだった父は、戦記物も良く読み、船も飛行機もその後も大好きで、長い事「航空情報」やら「世界の観戦」「丸」等という雑誌を毎月買っては読んでいた。私らと一緒に松本零士の戦場マンガシリーズや、新谷かおるの「エリア88」も楽しみに読んでいた。
またプラモ好きな兄と一緒になって戦闘機や戦艦等の模型を作ってもいた。
そんな父だが、決して戦争そのものが好きだったり肯定していたわけではない。それは間違いなく断言できる。

軍人時代も常に死を意識していただろうし、その後、結核になった時もまた同じだったろう。
父は結核の療養所にいた頃、キリスト教(プロテスタント)に入信していた。
教会に通っていた親戚からのすすめもあったが、”死”というものに直面した父が、キリストの教えに何かを見い出そうとしたのだろう。
結婚後も、キリスト教に興味をもたない妻を家に残し、毎日曜日、一人淡々と教会に通っていた。
それでも日曜の夜には、子供らと一緒に、いや子供らより夢中になって「宇宙戦艦ヤマト」の放送を見ていたりもした父だった。
そんな生活は晩年、病気になり教会に通えなくなるまで続き、最後はやはり胸の病で亡くなった。
父はとても静かに死を受け入れていた。それは何度も死というものに対面していたからかもしれない。
生前、母が父の事を占ってもらった時「この人は本当ならとっくの昔に死んでいますよ」と言われたとか。占い師が言うには、母との縁が父を生きながらえさせた、とか。その頃はまさかと思っていたが、案外、そうなのかもしれない、と、今になって思う。
実は父の戦争は戦後もずっと続いていて、この時、やっと終わりを告げたのかもしれない。
戦争で死んでいった仲間の分まで、淡々と生きていたのかもしれない・・・そんな父の死は昭昭和61年の年末。
昭和の時代が終わる直前に、自分の勤めをきっちり終え、去っていった。

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この昔の写真が見つからず・・・
これは同期会のアルバムにあった当時の予科練での訓練記録の一部のようあるです。
右下の航路図?実はここいらは我が家の先祖の地だったりもする


これまで書いたnotoの紹介はこちら
→ インデックス https://note.com/u_ni/n/ncaae14bb6206/edit


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