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アニメ業界への第一歩?

SFの世界に足を踏み入れ、SF大会やらSFショウやらで忙しかった大学の1、2年。
しかしその他にも大学生らしい事は一応やっていた。
授業はわりと真面目に出席していたが、当時の文系大学生はわりとヒマだったので、小遣い稼ぎのバイトもしてた。
そして2年の頃に、私はとあるバイトを始めた。
バイト先は、とある編集プロダクション。
そこではアニメ関係の仕事をしていた・・・。。

その前から幾つかのバイトはしていた。
バブルはまだ訪れていなかったわが大学時代。
テニス同好会やらに入ってる同級生女子は、お茶やコンパに行けばおごってもらえていたが、オタなクラブではそんな事はまったくなく、基本はワリカン。だけど幸いなことに、当時の一般的大学生(文系)は、わりとヒマだったから、たいていみんな、小遣い稼ぎのバイトをしていた。
私も例外ではなく、教科書代や日ごろのお昼代等は親からもらっていたが、趣味の本やマンガのお金は自分で稼がねばならなかった。そしてシナリオライターになる為の専門学校の受講料も必要だった。

ところで、携帯もネットもない当時の大学生のほとんどは、1冊100円ぐらいの週刊のアルバイト雑誌を買い、そこから自分に向きそうな職種を探し、電話をし、面接とかを経て雇用される、というのが一般的だった。
当時はコンビニはあまりなくて、主流は喫茶店のウェイトレスやらスーパー等の販売関係、あとは工場の単純労働等が主流だった。
運よく大学に入ってすぐ、紹介されてご近所の小学生(双子)の家庭教師の職を得た。比較的楽でオヤツも出るバイトで良かったのだが、彼女らが目標の中学に受かり、私の役目も終了。
他に変わった所では、TVのクイズ番組のエキストラもしたことがあった。
所属のSFクラブの初代部長がTV局でバイトをしており、その関係でエキストラとして声をかけてもらうことがあったのだ。
SF作家でもあった故中島梓さんが出演していたクイズ番組で、収録を見られ、座って指示通りに拍手をするだけで交通費+αもいただけて、と、本当に美味しいバイトだったが、授業と重なる事もあり、いつも行けるわけではない不定期なものだった。
あと、冬休みだけの短期の販売応援のバイトをしたこともあった。
私の配属はとある都内の大きなスーパーのオモチャ売り場。某イデオンのオモチャを扱っている会社からの出向だった。
いじさるされたわけではないけれど、姉さま方の人間関係に疲れ、イデの発動もあったのか、かつてないぐらい体調を壊し、5キロも痩せた・・・。
それでも実社会の人間関係の複雑さやら、包装の仕方やら、男の子でも青いリボンを好むとは限らないやら、色々な事を知れて有意義ではあったのだけれど、販売は自分には向かないと実感した。

そんなバイトを経て、本腰を入れてバイト雑誌で仕事を探していた時、目についたのが、とある「アニメーション雑誌の編集補助」という求人だった。
メジャーではなかったが、けっこう由緒あるアニメーション雑誌を出している所で、採用されずとも見学は出来る、ぐらいの気持ちで行ったのだと思う・・・実のところ昔すぎて、どんな段取りや面接があって私が採用されたのか記憶にない。
あとから考えると、そこの社長と私のTVアニメの嗜好がわりと近かったのが幸いしたのかもしれない(当時の私は出崎統派だった)。
そうして私はあっさりと、業界バイト?に足を踏み入れたのだった。

とはいえ、そういった映像や編集系の業界バイト自体は、私のまわりではそれほど珍しくなかった。
前のNOTEでも書いたように、当時は(今でもかもしれないけれど)SFや漫画・アニメ界とファンやサークルとの垣根はかなり低く、マンガの世界と同様に、そういったファンからプロになる人も多い時代だった。
私の所属していたSFクラブもそうで、前述のTV局で働いていた先輩しかり、他にもアニメ雑誌で編集の仕事をしていた先輩もいた。
私が大学でSFクラブに入ってすぐの頃、部室に見慣れない・・・でもどこかで見た人が座っていて・・・その人はあまり大学には顔を出さない(⁈)クラブの先輩であると同時に、私が愛読していた「アニメック」という雑誌の編集バイトだという事実に気づき愕然とした。常にミリタリールックで個性的なその先輩は、バイトとはいえ編集後記に何度も写真入り載っていた「メック」読者にはかなりの有名人?だった。そんな人が部室に座っているのを見たファーストインパクトは大きかったが、他の先輩らも編集やら、マンガのプロダクションやらに遊びにいったり手伝ったりしている人も多い事を知った。

私自身も、そういう編集の仕事につくチャンスがあった。
大学入学早々に仲良しになったCちゃんに「今度アニメージュに遊びに行くんだけど、一緒に行かない?」と誘われ、編集部に行った事があった。
群馬の女子高から出てきたCちゃんは行動派で、東京に出てきたらアニメージュの編集部に遊びに行くと決めていたらしく、素早く電話で編集部見学のオファーをとっていたのだった。
新橋のビルにあった編集部では、かなりエライ編集部員さんがちゃんと相手をして下さり、さらには「よかったらウチでバイトしない?」とリップサービスかもしれないが、初対面の我々に声もかけてくれた。
当時、その編集部では「アニメージュ」以外にも「ロマンアルバム」という一つの作品に特化したムックを出していて、そこではたくさんの学生バイトが編集作業を手伝っていた。アニメ業界は新しく、そういったアニメファンのバイトがこういった雑誌(主にムックの担当だったかも)の戦力となっていたようだった。
魅かれるものもあったけれど、私はシナリオ道も目指していたし、まだ大学生活に不慣れでその時はお断りしたが・・・
そういったバイトをしていた学生から、その後多くのアニメ業界で働く人たちが出てきたのは間違いない。
事実、私がシナリオを書いていた頃、取材をしにきたライター氏が、後々、名前を書くのも恐れ多い有名シナリオライターになったりしている(笑)

さて、そうした変遷を経て、SFクラブや知人のコネにたよることもなく、なぜかアニメ雑誌のバイトにたどりついたわけだけれど・・・
ただ私のバイト先はアニメ雑誌を作っているとはいっても、大手の商業誌の編集部とは違い、かなりこじんまりとした会社だった。
高田馬場の駅近くの2LDK?のマンションにあったその会社は、独自のアニメ雑誌も出していたが、超マニアックな内容だった為(きっと名前を出しても知らない人が多数)、それ自体で採算はとれず、刊行も不定期だった。
当時その会社のメイン業務は、アニメのムック作成と、当時"フィルムコミックス"と呼ばれていた、実際のアニメの画像をマンガのようにコマ割りし漫画形式にした本の下請け作業だった。
私の仕事は雑用で、使用したフィルムの整理やら、あとは原稿の受け渡し等のお使いがメイン。お蔭で都内の地下鉄乗り換えはかなり詳しくなった。
部屋ではネコも飼っていて、ヒマな時間にはネコと遊んだりと、かなり気楽で、忙しくない時はバイト代をいただくのも申し訳ないほどだった。
私の他にもバイトはいて、彼らはもっと上位の編集に携わる仕事をしていた。そのほとんどは、すぐご近所のあの名門W大漫研の方々だった。
その中には後に自分で編集プロダクションを作った方やら、卒業後には某大手出版社に就職、某有名青年コミック誌の編集長になられた方等も・・・。
雇用主であるそこの社長もかなり若かったので、仕事帰りにご馳走を食べさせてもらったりといろんな意味でかなり美味しい思いをさせてもらった。
アニメのコミックスは、講談社や双葉社から出ていて、そこの編集さんもよく顔を出していたので、そういった方とも何度かご飯をご一緒させてもらい、各会社で同じ編集さんでも個性が違う事も知った。
そんなエライ人に酔った勢いで、卒業したら会社入れて下さい、なんてお願いしたら、いいよ、と言ってもらった事もあった(多分冗談)・・・あの後でゴリ押ししていたら、大手出版社の社員になれたのかなあ、なんて夢想したりもするが、まあ、後悔先に立たずだ。あんなに気楽なバイトにありつけただけでも、相当にラッキーだったわけだし、お金もいただけた。
そうして稼いだお金で、私はとうとう次の一歩を踏み出すこととなった。。
そう、とうとうライター修行を開始することにしたのだ。

(つづく)

これまで書いたnotoの紹介はこちら
→ インデックス https://note.com/u_ni/n/ncaae14bb6206/edit

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