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SFとの遭遇(大学編1)

未来のことは予想できない。だからこそ面白いのだけれど、当事者は振り回されている。

「二次募集してる大学を探さないといけないかなあ」
国語教師で担任のC先生は困り顔だった。今は偉いけど、当時は初の高三担任、受けた大学全て落ちていた私の進路に頭を悩ませていた。
まあ、マンガやアニメばかりか野球にもはまり、勉強がおろそかになっていた自分、想定内の成り行きだ。
そんな事態に陥っても、自分は割と平然としていた。実はその時、二次募集のある大学を頭に描いていた。
その大学は"大阪芸術大学"。
そこは私の超不得手な英語試験はなく、論文だけだった。
あそこなら・・・と、私はそう心に決めていた。

で・・・私は入学した。
大阪、ではなく東京の私立N大に。
二次の願書を出すまでもなく、その後発表されたN大にあっさり合格したのだ。

さて、昭和50年代中盤当時の大学というのは、微妙だった。
学生運動は一段落していたものの、バブルはまだ到来せず、学校内には左寄りの団体によるペンキ字の立て看板がところ狭しと置かれていた。
月に何度か校門で学生手帳の検閲があり、忘れると学校内に入れなかった。
とはいえ平常時はゆるく、入学したら遊ぶぞ的な空気もあり、特に文系はそこそこ出席して単位を取れば卒業は出来た。就職戦線は厳しかったが、内定出たと言えば、多少単位が足りなくてもなんとかしてくれる、みたいな伝説もあるほどだった。

そんなご時世、一学部でほぼ総合大学並みの学生数のマンモス大学に無事?入学した自分。
とはいえ、抱いていたアニメ界への夢が消えたわけではなかった。
こうみえてA型の自分は、いきなり"業界入り"等という無謀な勝負は挑まなかった、というか出来る自信がなかった。
しかし上記の大阪芸大のような芸術系大はおおむね月謝も高く、サラリーマン家庭の我が家には負担が大きい。兄も奔放すぎる高校生活(アイドル追っかけ&カメラ小僧のはしり)のツケで、2年も浪人していたし・・・
というわけで、自分はそこそこの大学で、わりと好きな歴史を選考する道を選んだ。
幸い月謝も安い我が学部は映画や演劇関係の講義もあったし、必須科目以外は文系・理系どの授業も受講できた。果ては社会学科でも体育の教員資格がとれるという自由さだった(一節には体育学科に入れない相撲部員救済制度とも・・・)。

そんなわけで、とりあえず普通の大学生活を送るつもりだったけど、入学するなりあてが外れた。
同クラス出席番号2番違いに、やはり漫画やアニメ好きなA美がおり、すぐに意気投合。
さらに、何百人もが参加するオリエーテーリング合宿で、私の下敷き(当時はクリアーケースに好きなアイドルやイラストを入れたりしていて、私は安彦良和氏のイラストを入れてた)を見つけられ「わあ、クラッシャージョー! 私はキャプテンハーロックが好きなの、よろしく」と、隣のクラスのYちゃんとも遭遇、あっという間にアニオタ仲間が結集してしまったのだ。

サークル活動でも、なんだかんだでSF研究会に入部する羽目になった。
明るく楽しいサークル活動を夢見ていたが、目指すアニメ研はなく、マン研はどちらかというと創作主体で描けない私には不向きだった。
で、勧誘で声をかけられたSF研究会へ。まあSF小説も好きだし、いいかなあ、程度の気分で、知り合ったばかりの友人2名とこのサークルに入ったけれど、果たしてこのサークルのメンバーはなかなかの曲者ぞろいだった。

創設者のT1氏は大学6年生(笑)で、学生というより、TV局の当時人気のクイズ番組のADの方がほぼ本職。
2代目と3代目の部長は真面目だった。2台目部長のT2氏氏は既に卒業して某大手出版社に就職してたが、よくサークル行事にも顔を出してくれていた。
3代目部長のO氏は「金貸さないとその前の借金返さないぞ~」という理不尽な同級生にもお金を貸してあげる優しい人だった。
ちなみに理不尽な人の高知での後輩もサークルに入部(私らと同期)してきて、違う意味で破茶滅茶だった。さらに後々入った後輩は3代目部長と同郷の津軽出身者と、この部には怪しい運命の糸が絡み合っていた。ちなみに私の誕生日はこのクラブの創設記念日とか、まさに運命だ。
ただ当時の4年には、ここに不似合いな美人部員らがおり、彼女ら目当てで在籍している不埒な部員も少なくなかった。
一応部室はあったけど、2階建てプレハブの二畳あるかないかの狭い部屋。しかも他の部と共用で週の半分しか使えず、夏は暑く冬は寒かった。
それでも昼休みになると部室に人が集まり、タバコの煙の中、授業出席ももスモーキーな男子部員らがトグロをまいていて、4人揃うと雀荘に向かう、そんな怪しげなサークルだった。

さて、その活動内容はSF小説を読んでの読書会や、あと会報を出すという、ごくごくありふれたもの。
けれど、実はこのクラブ活動、それだけではすまなかった。
なんとその夏、東京で開催予定のSF大会「TOCON7」のスタッフ(ほぼ下働き)として働く事となったのだ。
強制ではなかったが「もう締め切ったSF大会、スタッフとしてなら参加できるよ」と1年先輩のM氏にほぼ詐欺まがいに勧誘され、あれよあれよという間にスタッフをやることになってしまった。

ここでちょっと当時のSF&SF大会事情を説明しておくと・・・
今はマンガもドラマも小説も、SF風な話はたくさんありSFという言葉自体が死語になりかけてるけど、当時はまだ新鮮で右肩上がりなジャンルだった。
その少し前までは、SF作家クラブで宿をとると、宿の前の看板に"歓迎・SFサッカークラブ御一同”と書かれていたほどマイナーな存在だったとか。
初期はハヤカワ書房等でアイザック・アシモフらの海外SFがポツポツと紹介されていたSF小説も、眉村卓氏原作のNHK少年ドラマシリーズ等でジワジワお茶の間に浸透。
世界的には「スターウォーズ」が、日本でも「宇宙戦艦ヤマト」等がヒットすると、筒井康隆氏の「時をかける少女」や小松左京氏の「復活の日」も映画化。
当初「SFマガジン」だけだったが「奇想天外」等、日本作家に重点を置いたSF雑誌も出て、新井素子氏という新たなスターとなる女子高生作家を誕生させるなど、とにかく勢いがあった。

そんな日本SF界最大のイベントが"日本SF大会"だった。
世界でも行われてるSF大会だが、日本でも毎年、土地を換え合宿形式で行われており、優れたSF作品に贈られる星雲賞の授賞式を始め、各種SF映画の上映やら、作家を招いたパネルディスカッションやらが行われていた。
その開催を請け負っているのは、各ファンダムを中心とした有志で、その夏の"TOCON7"では、当時関東の大学にたくさんあったSFサークルでも、大会をボランティアで手伝うことになっていたのだ。

かくして何がなにやらわからないまま、そのSF大会のスタッフに組み込まれた自分。すごい過去の事なのと忙しすぎたのとで、正直、細かい事はあまり覚えてない。
実行委員会本部は、大学の帰り道のとある私鉄沿線駅(鈍行のみ停車)から徒歩10数分の安アパートの一室。そこに各大学から兵隊たち(SF部員)が集まり、下働きを行っていた。
中にはなぜかそのアパートが我が家のように常に存在している謎の人やら、一方、渉外関係に駆け回る由井正雪ばりのロンゲでアタッシュケースを持ち歩く神出鬼没の人物もいたりした。
ちなみにお二人ともそのアパート近くの某最高学府の学生だった。
が、他にも優秀な同大の部員さんも数多くいらっしゃった。今はみんな偉くなってロケット上げたりしてる人もいるのかな?
さて、私らは下働きの中でも最下層で、たいした仕事はなかった。参加者の申し込みハガキや名簿の整理等の事務作業を手仕事でこなし(まだパソコンもワープロすらない時代)、大道具や小道具の製作、果ては販売予定の小さなぬいぐるみ作り(吾妻ひでお先生の"のた魚")の針仕事までやっていた。
大変な事もあったけど、若者が多く集う中、恋の花咲く人らがいたり、それはなくとも他大学の人らと交流し、もちろん飲みにもいったりと、怪しいけれどもそれなりに楽しい青春の一ページではあった。
ただ差別やイジメも・・・当時SFファンの中ではスペースオペラの「ペリーローダンシリーズ」を読む者らが差別(!?)されており、その事実が知れるとマルペ(マルの中に”ペ”の字)と呼ばれ後ろ指をさされていたとか・・・。
冗談?はさておき、とにかく嵐のような準備期間はあっという間に過ぎ、当のSF大会の日を迎えるが、正直、当日の事はあまり覚えていない。
そうして大学1年の夏は終わり、ようやく普通の生活に戻れる、と思ったのは大きな間違いだった。

この大会の開催で、大変さとともに楽しさを知ってしまった先輩らが、翌年も別の"SFショウ"というコンベンションの開催を決め、翌年も私は下働きする事となった。
この大会もあまり多く覚えていない。一番覚えているのは、シンセ奏者でSF作家でもある難波 弘之氏のバンドLIVEだ。こういったコンベンションでの生演奏はかなり珍しいと思う。自分は出番を告げに行く係だったけれど、前奏始まっても余裕で楽屋にいて、ピタリとステージに出ていったバンドの皆さんの場なれた感じには驚いた記憶はある。
ただ1年前より少し責任ある仕事をまかされた分、きつい事も多かった2年の夏。当時、自分は絶対悪くないけど、今ここで自分が謝らないとこの場がおさまらないという出来事があった。で、怒っているその人(その後、某幻の大陸名雑誌の編集となった)に自分は頭を下げた。今はその内容も思い出せないが、ただ超常現象並みに頭が沸騰したのだけは覚えてる。
けど、ある意味、あれも学びだったのだろう。
そして私は人生修行で済んだけれど、仲間には留年するもの・・・人生は甘くないのも知った。

そんな風に色々な人と出会い、色々な人生修行をした2年間。
普通の大学生としてもだけど、まさに人生の"教養課程"だった。
で、自分の目指していたアニメの仕事へのアプローチは、まだ進めずにいるのでした。
ドラマ流儀で行くと起承転結の"転"の部分ですかね、期待して読んでくれてた人、ごめんなさい。
でも、まだ続きます~!



~オマケ・DAICONの思い出~
さて、手伝うばかりではなく、2年時にはSF大会に参加もした。
翌年のSF大会の開催地は大阪。知る人ぞ知る"DAICON3" そう、あの伝説のOPアニメ-"DAICONアニメ"を、今や巨匠庵野秀明氏らが作った大会だ。
もし自分が東京の大学に落ち、大阪のあの大学に受かってたら、あちらの"アオイホノオ"に巻き込まれてたのかな、等と今になって思うけど、結局のとこ、その後の人生は大差なさそうではある。

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そうそう、もう一つ、今この場でお詫びとお礼を改めて言いたい事がある。
そのDAICONで大阪へ行った時、無鉄砲な私は宿も取らずに行ってしまった。そんな私を不憫に思った、とある女子大SF研究会のお姉さまたちー前年一緒にTOCON7で働いていたーが、私を自分達の宿に誘って下さった。
そのお姉さまたちの中には、後々翻訳者になったり、ミステリー作家になった方々もいたかも・・・ほんと恐れ多い。
お蔭であの時、難波で路頭に迷わずにすみました、本当にありがとうございました、と何十年もたった今言います、重ね重ね感謝です。


これまで書いたnotoの紹介はこちら
→ インデックス https://note.com/u_ni/n/ncaae14bb6206/edit

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