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パラサイト~半地下で門前の小僧となった日々

とても良いご縁で入ったアニメ会社を先のあてもなくやめてしまった自分
ただでさえ四卒女子の就職がまだまだ難しい時代だったというのに・・・。

当時、イマイチな私立大人文系卒四卒女には、ろくな就職先はなかった。
有名企業に行ける人はよほど優秀か縁故あるかのほんの一握り。あと学校の成績もよく各種資格をしっかり取り、教員等の公務員になる、とか。そうそう、しっかり者の友人Cも在学中に大学でとれる限りの資格を取りまくり、就職先を決めていたっけ。
残りの一般学生は、今でいうブラック企業みたいな会社の求人の中から、なんとか選ぶしかない状況だった。

卒業間近なのに就職も決まっていない私に、母は怒った。何でもいいから就職先を探せ、と。
とはいえ就職なんかしたら、完全に夢への道は進めなくなる、と、私は頑なに抵抗した。
ただ父は「好きな事をやればいい」という風だったし、マスコミ関係の会社に入り、好きな世界で水を得た魚のように当時働いていた兄も、まわりに自由業が山のようにいたせいか、こんな私に何も言わなかったのは救いだったが。
それでも母は、卒業したら少しでも家に生活費を入れろ、と主張した。パラサイト生活は許さない、という姿勢だった。
仕方なく私はバイトを探すこととなった。
販売や接客は不得手な自分は、それ以外で、出来ればシナリオの勉強も続けられるような定時に帰れる仕事先を探した・・・そんなのが都合よくあるわけが・・・いや、ところがどっこい、巡りあってしまったのだ!

求人広告で見つけたその会社は、家から電車で1本、主な仕事は電話の取次ぎ、残業ナシ、という仕事だった。
面接をしに行ったら、その会社の美人女性重役さんに「正式結果はまだだけど、私はあなたがいいと思うわ」となぜか即、気に入られ、あっさりバイトが決まってしまった。
お給料はバイトだから察して知るべしだが、ほんと、仕事に関しては自分、ホントに運がよいらしい。

そうして私は、その会社に通い始めた。
会社は我が町から電車で1本、30分。都内だけれど、急行の止まらない小さな駅で降り、そこから徒歩で10分程歩いた閑静な住宅街にあった。
一見、豪邸風のその会社家屋の駐車場横にある半地下の一室が、私の仕事場、営業部だった。そしてそこにいたのは営業部長1人と電話番の私、なんと2人だけ。
会社のメインは上の階で、そこでは主に大きく二つの仕事がなされていた。
一つは、隔週?少年マンガ雑誌の編集。
もう一つは、その雑誌の編集長も兼ねている、とある漫画原作者先生のマネージメントだった。
そう、そこはまたしてもオタなマンガ業界の会社なのだった。

で、そんな会社の営業というのはどんな仕事をしていたかというと・・・正直今でもあまりよくわからない。ただ色々な大手出版社の方やら、大手テレビ局の方々等から、頻繁に電話がかかってきていた。
私のたった一人の上司である恰幅のよい声も大きな営業部長さんは、会社にいる事はあまりなく、朝、出社すると私のいれたお茶を飲み、お昼頃には出かけて行き、私が帰るまでに戻らない事も多く、つまりはほとんど留守だった。その間、かかってきた電話を私が受け、用件をメモし、それを外から電話をかけてきた営業部長さんに伝える、というのが私の仕事だった。
だからほぼ1日の大半、私はその半地下の部屋に一人ぼっちだった。
でもその間、私は席にさえいれば、何をしていようとOKだった。すぐ裏にミニキッチンはあるので、お茶は入れ放題、飲み放題。トイレもすぐ横にあったから何の不自由もなかった。
ただまわりに食事する所もなかったので、お昼は持ってきたお弁当を食べるしかなかったが、まあお金はかからなかった。

何より私にとって嬉しいことは、その部屋の奥には書庫があり、その中の本は自由に読んでいい、と言われた事だった!
そこには、上の大先生が原作を手掛けたマンガ作品が、古いものから新しいものまで、ズラリとほぼ全てそろっていた。
大先生の作品は主に青年マンガが多かったが、少年漫画や男性雑誌、有名週刊誌にも幅広く掲載されていた。
内容は時代劇、裏社会から女の世界、ゴルフから、さらにはSFまで、壮大なストーリーと細やかな人間描写でほとんどの作品がヒット、多くの作品がドラマや映画化もされていた。
昔から、兄の部屋に置かれていた青年誌等でチラチラと読んでいて、その面白さを知っていた自分にとって、それは幸運以外の何物でもなかった。
いつでも勝手にお茶も飲めるし、マンガ喫茶状態で大先生の作品を無料で制限なく読むことが出来るのだ。
上の階の人たちは、営業部という半地下の部屋にこもっている私を見て「退屈でしょう?」「いつもひとりで大丈夫?」とか気遣ってもくれたけれど、自分にとっては苦痛どころか、まさにそこは天国だった。

もちろん、与えられた仕事はきちんとした(つもり)。
ごくたまに会社が忙しい時は、その仕事も手伝ったりもあった。
特にその会社が忙しかったのは、本業関係ではなく、その会社恒例の、年に一度の招待ゴルフコンペの時だ。ゴルフ場を借り切ってのイベントなので、私も招待状やら出欠の確認電話やらの手伝いをした記憶がある。上の正社員さんらはさらに大変で、コンペ会場近くに泊まりこんでの一大行事となっていた。
逆に仕事がしたくとも、出来なかった事もあった。
近くの電話線が火災により被害を受け、その一帯の電話が不通となったのだ。当然、電話番の仕事もない。
私はマンガを読んでいればよかったが、大先生の仕事締切調整等、スケジュール管理をしている上の社員さんらはその数日は本当に困っていた。
ただ会社の車には、当時はまだ高価だった自動車電話がついていたので、そこに社員さんが一人へばりつき、各所と連絡をとっていた、
携帯電話のある今からすると信じられない話だけれど、そもそも携帯なんかがなかったから、私は電話番なんて仕事がいただけたわけで・・・固定電話様様だ。

それでもマンガと電話番ばかりの生活だとさすがに煮詰まっていただろうけれど、他にもポチポチ、シナリオ関係の仕事もないわけではなかった。
以前バイトしていた編集部の縁で、アニメ企画のお手伝い等もあって、その半地下の部屋で構想を練ったりもしていた。
有名漫画家の先生のアニメの企画書を書いたりもあったが、すぐにポシャった。あと、とある超人気マンガ(TVアニメにもなってた)の映画化企画等も手伝い、シナリオ第一稿まで書いたが、それもボツとなった。作業場も借り、そこにスタッフが集まり始めていた段階での中止だったから、ちょっとショックではあったけれど。
そんな感じで、結局アニメシナリオの関係のお仕事はちゃんと出来ないまま、そのマン喫みたいな半地下の職場で半年以上を過ごしていた。
冬も近くなった頃には、さすがに書庫のマンガもほとんど読みつくしてしまい・・・さて、この先どうしようかと悩みはじめていた頃、一本の電話がかかってきた。
それは私がやめたアニメ会社の製作さんからで、
「知り合いがいるアニメ会社の新作アニメで、若手のライターを探してるんだけど、紹介しようか?」と。
もちろん即座にお願いをした。何より、その新作というのは、私が高校時代から好きだったアニメの続編だったのだ。
ヒットした旧作のシナリオ陣ではなく、なぜか監督が新人ライターを起用したくて探している、との事で声がかかったのだ!
その後、色々な変遷を経て、私はそのアニメのシナリオの仕事をする事になるのだが・・・それは長くなるのでまた後ほど。

そうして私はシナリオの仕事に専念する為、その有名マンガ原作者大先生の会社を辞めさせていただく事となった。
短い付き合いだったにもかかわらず、上司だった営業部長さんは、私へのはなむけに、いつも彼が行く銀座のお店(クラブ)に連れて行ってくれた。
私の人生で最初で最後(多分)の銀座のお店。きれいなお姉さんたちは、さすがの気遣いで、私のような小娘にもきちんと対応してくれて、さすがこれが大人の世界か、と感じさせてくれた。そんなこんなで、本当に最後まで良い経験をさせていただき、短い間だったけれど、今でもあの会社には感謝の気持ちしかない。
マンガ原作者の大先生は、数度お見掛けしただけで、あちらは私の存在等認識していなかったのは間違いないけど。
本当は先生が主催する劇画村塾にも入りたいと思った事もあったけれど、マンガ家ではなかったこと、そして時期が合わない等もあってそれはかなわなかったけれど、と門前の小僧、ならぬ書庫前の物書き?という事で、あの書庫の中の作品から、多くを学ばせていただいた。
今は亡き小池一夫先生とスタジオの皆さん、今頃ですが本当にありがとうございました。

そしてまわり道を終え、脚本家として新アニメに参加する話は、また次回!


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