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父と旅行

昭和2年生まれの父は旅行好きだった・・・たぶん。
たぶんというのは、父が自分の好きなように十分に旅行に行く機会がほとんどなかったからだ。

前にも述べたように、父は学徒動員で予科練に入った。運よく特攻隊には選ばれず片道飛行の旅には行かずにすんだ。
命拾いしたものの、その後、結核にかかった。
かなり危うい所だったが、なんとか新薬が間に合い、三途の川を渡る旅にも行かないですんだ。
そうして生き延びたものの、長男として家族の面倒を見ねばならず、母と結婚してからは自分の家族も養わねばならない父だった。

そんな中、父の貴重な旅の機会は、私達家族との旅行ぐらいだった。
私や兄が幼い頃は、家族四人での旅行へほぼ毎夏休みのように出かけていた。
とはいえ電気労連系サラリーマンだった我が家は、交通公社にまるっとおまかせで行くようなリッチな旅とは無縁だった。だから旅行計画も宿も電車も、すべて父が手配していた。

A型らしく緻密な性格の父はさらにその宿へのルートも時刻表を見て調べ、そのあとどう回るかも、旅行ガイド等を買ってきて、ひとり調べて計画していた。電車の途中で”横川の釜めし”を買う、とか。お蔭で我が家にはあの釜めしの器が一時期いくつもあった。
子供だった私はそんな事を知るよしもなく、ただ父の計画通りに毎年旅行を楽しんでいた。

今思えば、行く先はほとんどが山だった。
決して父は海が嫌いだったわけではないと思う。
海軍にいたせいか泳ぎも出来た。肺は手術で半分しかないくせに、気が向くと私達と一緒に近くのプールに行ったりもしていた。父は”のし”という日本泳法もしていたが、あれは海軍で習ったのだろうか?
母の田舎が長崎で、里帰りをするとそちらで海には行ったりしてたので、あえて夏の旅行は涼しい山へ向かっていたのか?
真意はわからないが、肺活量の少ない父にとって決して楽ではないはずだった。実際辛そうな姿も覚えている。
やはりきっと山が好きだったのだろう。そういえば登山靴も持っていたような気がする。

とはいえ、子供たちと一緒だったので、山といってもそんなに険しい所へは行かなかった。
夜叉神峠、志賀高原、蓼科等へ等へ行った。
提携施設でとった夜叉神峠の宿はあまりきれいでなく、おひつにカビがはえてる、と騒いだ記憶も残っている。
当時、旧財閥系等のリッチな企業は各地に保養所を構えていたが、父の勤めていたような新興企業だとそういう便利な施設はなく、ただ提携で安く泊まれる施設等があったようで、まめな父は毎年そんな中から調べ、宿をとってくれていたようだった。

そして旅に行くと父は写真も撮っていた。
当時はフィルムを買い、現像するにもお金がかかったし、なによりカメラも高級品だった。そんな中でも父は自分の小遣いの中でカメラを買い、なんと当時出たばかりだった8ミリ撮影機も買った。
おかげで我が家には我々の8ミリが残っているはずだが、いまでは映写機も使えないので見る事もないが・・・。

山に登り、写真や8ミリを撮る、という父のささやかな楽しみは、子供が大きくなると自然と消えることになる。受験やらで子供たちも忙しくなり、さらに子供らは自分たちの好き好きに動くようになり、家族旅行なんて行かない、という流れになったからだ。

それでも会社の出張で地方に行く時には、わざわざ足をのばして転勤で地方にいた姪の家まで足をのばし、赤ちゃんの顔を見に行ったりと、あいかわらずまめな父だった。
あと母とも何度か国内の旅行はしていたし、たまに予科練時代の仲間との同期会に出かけたりするのも楽しそうだった。
それでもやはり会社員ということで、長い休みはなかなか取れないし、自分だけの自由な旅行とは無縁のままだった。

唯一の海外旅行は、最後の勤め先だった会社での出張だった。元々飛行好きで飛行機乗りだった父が、唯一、台湾への出張が、飛行機で海外へ行った最初で最後のフライトだったと思う。

父は最後の会社に勤めている途中で病気になり、60を前に亡くなった。
計画的な父だったが、あの年にして亡くなるのは予定外だったのではないだろうか。
父の最後の旅・・・それは大好きだった山よりも高い、虹の橋の向うの天国への旅だった。

父が亡くなった後、兄のハワイ挙式を皮切りに、我が家は海外旅行ブーム?となる。
ホンコンだのハワイだのと家族旅行を何度もした。
私と母二人だけでも、ほぼ毎年のように海外旅行をして、そのたび父の事を思い出していた。

もう少し早く父をリタイアさせてあげて、もっとたくさん大好きな飛行機での旅行をさせてあげたかったね、と、家族で旅行に行くたびに話が出た。
飛行機が大好きで、家には”航空情報”が山積みになっていて(”世界の艦船”もあったが)、YS11の話などになると目を輝かせていた父。
もし生きていて、一緒に旅に出たら、父のことだから、きっと色々と事前に調べ、細かく計画をたて家族を色々な場所へ案内してくれてただろう。
いや、もしかしたら私たちが海外旅行に行くごとについてきているのかもしれない。
なんだかんだと海外で危うい目にあっている我々が、なんとか無事でいられるのは、父が旅行について来てくれてるお陰かもしれない。
うん、きっとそうだ。
だから父の為にも、また飛行機に乗り、あちこちに旅をしなくては・・・と。

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