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【小説】踏み出したら「おはよう。」が聴こえる

「待って! 行かないで!」

 あの日、そう言っていたら、あなたは今も私の隣にいてくれたのかな?
 この桜の花びらが舞う駅までの道を、今も一緒に歩いていられたのかな?

 毎朝、同じ時間で目が覚める。
 無意識に手を伸ばしたテレビのリモコンは、なんのためらいもなく同じボタンを押した。聴こえてくるテーマソングも、聞こえてくる元気な声も、何も変わらない毎日の始まりを知らせてくれる。

 涙で目覚める毎日は、私には先の見えない道のように、怖くて、苦しくて、悲しくて、どうしたらいいのかも解らない。パジャマで涙を拭うと、ベッドサイドに置かれたペットボトルの水を一気に飲んだ。


「はぁ……」
 あれからもう、1年も経つのに……。

「そっか。あれからもう1年か……」


 深く、深く沈んだ夢の中。そこからいつも私を目覚めさせてくれるのは、律(りつ)の「おはよう」のメールだった。
 何をされても起きることが出来ない、朝が苦手な私が、律からのメールにはすぐ気付くことができた。
 その「おはよう」のメールを確認すると、サイドボードに置かれたリモコンでテレビを付ける。これも毎朝のこと。聞こえてくる番組の明るい声、日々のニュースを読み上げる真剣な声に時々耳を傾け、急いで身支度を整えて、家を出る。いつもの待ち合わせの時間に間に合うように家を出られるのも、律からのメールのおかげだった。

「律ー! おはよう!」

 家から5分、その道で待つ律に大きく声をかけた。

「あーあ、美耶(みや)が大声だすから逃げちゃったよ」

 道にしゃがみ込んでいる律の周りには、数匹の猫が集まっていた。ゴロゴロと大きな音を出して律に甘える大きな体の茶白の猫。ここら辺の番長猫だ。周りを見ると、私の声に驚いて隠れてしまった猫たちが、ゆっくりと私の足元に寄って来た。

「あー、ごめんねぇ。びっくりしちゃったよねー」
 私はそう言いながらしゃがみ込むと、猫たちに「おはよう」と手を伸ばす。野良猫なのに柔らかい毛並みと、丸々太ったお腹から、この住宅街の人たちから可愛がられている様子が伺えて、嬉しくなった。

「そういえば、いつもいた黒猫見なくなっちゃったよね?」
「そうなんだよ。今度近所の人に聞いてみようと思ってるんだけどさ」
「心配だね……」

 同じ時間の電車に乗るため駅へ向かう私たちの会話は、もっぱら猫たちのこと。
 私と律は、同じ大学の猫好きが集まる『猫サークル』で出会った。
 野良猫や保護猫や、猫の実態に詳しい、なかなか濃い面子の集まりのサークルで、「ただ猫が好き」そんな引け目を感じていた私が、律を意識したのはサークルのビデオ鑑賞会でのことだった。
 1つ年上の花崎 律(はなさき りつ)は、とてもクールで物静か。表情をあまり崩さない感じが、どんな人なのかまったくわからなくて、近づきがたい印象を与えていた。
 その日のビデオのテーマは『多頭飼育崩壊について』という聞き慣れない内容で、猫を未手術のまま飼ってしまったがゆえどんどん増えて、生活ができなくなってしまうという大変なものだった。猫が好きで、外にいるのが可哀想で家に入れてしまった猫が、出産を繰り返し増えていってしまうという、なかなか重い内容にみんなが無言のまま見入っていた。
 最近増えている猫問題として取り上げられていた。飼い主は猫が好きで、猫を守りたくて、家に入れてしまったことがその多頭飼育崩壊の始まりだという。とても切なくて、猫好きとして考えさせられる内容だった。

 少しの休憩。みんながそのテーマについて熱く語っている中、1人外に出た律が何となく気になっていた。こっそり後を追った私が見たのは、誰にも気付かれないよう涙を拭う律の姿だった。

「!」
「あ……」

 突然、振り向いた律と目が合った。

「ごめんなさいっ」
「……いや」
「……」

 いつも無表情でクールな律が見せた涙に、私の心はいっぱいになった。

 そして……。

「まさか見られるなんて」そう言った律の笑顔は、私の特別なものになっていった。

「律先輩、猫、好きなんですね」
「うん、実家にはいつも猫がいて、子供の頃から猫をきらしたことがないかな」
「あ、私もそうです! 母が猫好きで、小さいころから猫飼ってました。でも……猫サークルってもっとユルイ感じかと思ったら、今のビデオもだし、活動も地域猫とか保護猫とか本格的で、ちょっと場違い感……」
「いいんじゃない、好きって気持ちだけで。だけどさ、ああいうビデオ見るとちょっとね。好きが高じてっていうか……」
「……」
 さっきのビデオを思い出したのか、声を詰まらせる律は、本当に優しい人なんだって感じた。

「……いつかさ、保護猫カフェ作りたいんだよね」
「え? 保護猫カフェ……ですか?」
「うん。野良猫とか、猫の虐待とか、さっきの多頭飼育崩壊とか、そういう辛い思いをした猫をピカピカにして、優しい本当の家族を見つけてあげる。そんな保護猫カフェ」

 猫をピカピカにして……。
「……なんで……」そんな話、私にしたんだろう?

「……美耶って」
「え……」
 突然下の名前で呼ばれ、動揺する。

「美耶って名前、猫の鳴き声みたいだなって、ずっと思ってたんだ。『ミヤ~』ってさ」
「……ぷっ。そんなこと、初めて言われました」
 私は律のその言葉に、笑いが止まらなくなった。
 律は決して大きく笑わない、そっと口角を上げ微笑む独特な笑い方。
 目が合ってずっと見つめ合う、鼓動。

 律の何とも言えないクールさに。
 何とも言えない雰囲気に。
 律のすべての優しさに……私はどんどん惹かれていった。


 それから、家が近いことが分かった私たちは、お互いの家を行き来するようになった。
 本当はしっかりした職につくことをご両親に熱望されていたのに「保護猫カフェを作りたい」そう言った律の夢の片棒を、私が担ぐことになったのだ。

♢♢♢

「美耶ー、おはよう!」
「律先輩おはようございます」

「えー、みんな、こんなに早くどうしたの?」

 いつもの駅に着くと、同じ猫サークルで一緒のハルカたち数人に声をかけられた。講義の時間もバラバラで、同じ電車になることなんてめったにないのに。

「知り合いの家の猫が脱走しちゃったらしくて、その捜索の手伝いに行ってたんだ」
「えっ!? そうなの? 連絡くれれば私も行ったのに」
「美耶は早起き苦手だから、あえて連絡しなかったんだー」
「えー。頑張れば起きれるのにー」
「美耶は自力で起きるのは無理だなー」
「もう! 律までそんなこと言わないでよ」
「あははー」

 駅に入ってくる電車の起こす風に長い髪がふわりとなびく。
 サークルの後輩と話す律の笑顔はどことなく寂しげで、一足早く社会人になって、猫サークルの活動に参加出来ないことも、その寂しさの一つなのかもしれない。

「律先輩、今度またサークルにも顔を出してくださいよ」
「そうだな。仕事が落ち着いたら覗きに行くよ」
 笑顔で答える律の顔が少し悲しく見えた。

「じゃあね律。また後でメールする」
「ああ」
「仕事、頑張ってね」
「サンキュ」

 私たちは律を残し、大学のある駅で電車を降りた。
 見送った電車の中、いつもなら手を振る律の姿が、今日は乗客の多さで見えなくなった。
 なんとなく、寂しい……。

「律先輩、ちょっと元気ない?」
 電車を見つめる私にハルカが声をかけて来た。
「……うん、ちょっとね。仕事、大変みたい」
「そっか」
「まだ、仕事に慣れないって言ってた」

 入社してまだ1ヶ月。仕事中はメールも返ってこないし、日に日に帰りが遅くなる律に不安は募っていた。
 休日も最近は疲れ果てていて、そんな律を見ると、会うこともためらわれた。

「美耶もさ、朝苦手なのに毎日頑張ってるよね。律先輩と同じ時間の電車に乗るんだって、さ」
「……うん」

 そうしなければ、律に会えない。
 会いたくて、会いたくて……。
 でも、今は無理させたくないから、せめて朝の時間だけでも一緒にいたい。

♢♢♢

 いつもより早く降り立った最寄りの駅は、やわらかいオレンジ色に包まれていた。
 長い影を追いかけるように進む道には、朝も会った猫たちが集まって、まるで何か話をしているみたい。いつもはもっと帰りが遅くて真っ暗だから、猫たちがこんなに集まっているのを見るのも朝くらいしかなかった。

「みんな、ただいま」

 私は朝と同じように猫たちに囲まれ、その場にしゃがみ込んだ。

「美耶」

 その声に驚き立ち上がると、猫たちも驚いたように走って姿を隠した。

「律!」

 私は無意識に律へ飛び込んだ。

「どうしたの? こんなに早く帰ってくるなんて! すごい偶然でビックリした!」
「そんな興奮するなって。さっきメールしたのに返事がないから帰ろうと思ってたんだ」
「えっ! うそ! 気付かなかった!」

 私は慌ててスマホを取り出すと、確かに律からのメールがあった。
『今日は早く帰るよ』

 今、目の前に律がいるのに、このメールの言葉が嬉しくて飛び上がってしまいそうだった。

「来週からまた忙しくなりそうだから、今日は早めに帰って来たんだ」
「そうなんだ……」
 また、一緒に居られる時間が減っちゃうのかな……。
 そう思っただけで、何とも言えない切なさに襲われた。

「美耶、一緒にご飯食べる?」
「うん! あ、でもうち何もないや」
「たまには、どっか食べに行くか」
「……スーパー寄ってく」
「ん? スーパー? いいけど」
 不思議そうに返事をする律の腕にしがみついた。
 どこかで食べるより、2人家でのんびりしたいよ。そう言いかけて、やめた。

「アイスも買って帰ろうね」
「アイス~?」

 手を繋いで歩く律が、ふと口ずさんだ聞き覚えのある鼻歌。

「あれ、その曲知ってる。なんだっけ」
「朝、美耶にメール送る時にいつも流れてるんだ。覚えちゃったな」
「あ! 朝の番組のテーマソングだ!」
「そうそう」

 そう言いながら、一緒に鼻歌。歌詞なんだっけ。
 そんなことさえも、私には楽しくて。

 特別なんてなくていい。
 2人でいられるだけで嬉しくて、
 2人で過ごす夜が愛おしくて、
 2人で目覚める朝が、幸せだった。

 それだけで、よかった。


 あの言葉通り、次の週からまた忙しくなった律は、会うことも話すことも少しずつ減っていった。
 それでも、毎朝の決まった時間の「おはよう」は忘れない。同じ時間に家を出て、猫たちと話をして駅へ向かう。同じ時間の電車に乗って、そして手を振って別れる。
 忙しくて会えない日が続いても、その毎朝があれば幸せだった、頑張れた。


「律、大丈夫?」
「え?」
「なんだか顔が白いよ? 具合悪いんじゃない?」
「そうかな? ちょっと寝不足なだけだよ」
「……」

 いつもの電車、いつもの朝の会話が、『いつも』と違うことに気付いていた。

 相変わらず日中のメールには返事がない律。それでも仕事が落ち着けば返信してくれたし、仕事終わりには必ず連絡をくれた。
 朝の「おはよう」と、帰りの「ただいま」。それだけで、不安が嘘のように吹っ飛んだ。

 部屋の時計を見ると、もうすぐ23時になろうとしていた。
 どんなに遅くてもこの時間には返事をくれるのに、今日はない。ただ、それだけで落ち着かなくなってしまう。
 何度も何度も見上げる時計は、進んでほしくないという気持ちとはうらはらに、秒針を刻む音が早く聴こえた。
 私はロングのカーディガンを羽織ると、家を飛び出した。居てもたってもいられなかった。
 律のアパートまで、歩いて15分、小走りにいつも駅へ向かう道を進んだ。
 スマホにはまだ、律からの返信はない。

「どうしたんだろう?」

 焦る気持ちを抑えるように、私はゆっくりとインターホンを押した。
二度目のボタンを押そうとした時、「はい」と低い声が聞こえた。

「律!?」
「……美耶?」
「どうしたの? 大丈夫?」
「……寝てた。ごめん。……ゴホッ……」
「律!? どうしたの? 体調悪いの!?」

 扉の中と外、姿が見えないことが、こんなにももどかしい……。

「ごめん……インフルエンザになっちゃってさ」
「インフルエンザ!? 大丈夫なの!? 何か必要なものとかある?」
「とりあえず、大丈夫……ゴホ、ゴホッ……」
「律……」
 擦り切れるような痛々しい咳が部屋から聞こえる。
「律、開けてよ」
「……ダメだ」
「どうして? ……律に、会いたいよ」
「……染ったら大変だろ? それでなくても朝会ってるんだ。美耶にも染しているかもしれない」
「そんなの平気だよ。律からなら、染ったって構わないよ」
「……美耶、ワガママ言わないでくれよ」
「……」
 私は扉の前へ座り込んだ。
「……美耶、もう遅いから帰りな。明日の朝起きられないぞ」
 私は一人、大きく頭を振った。
「……私は何も出来なくて、朝も律に起こしてもらってばっかりで、いつも迷惑ばっかりかけて……本当は私が律を守っていきたいのに……」
「……」
 ロングカーデのフードを深く被ると、ぎゅっと膝を抱えた。

「……バカ言うな。そんな言葉、男の俺のセリフだろ」
「……律……」
 嬉しくて、嬉しくて、涙が溢れた。
 律を抱きしめたい。
 ずっと、側にいたい。
 この薄い扉がそれを阻んでいた。

♢♢♢

 幸いな事に私はインフルエンザに感染することなく、普通に生活出来ている。
 律は一週間の隔離生活を経て、無事に会社復帰したけれど、休んでしまった分を取り戻さないとって、また死に物狂いで働いていた。
 社会人と学生じゃ生活の時間だって変わってくるし、会えないことが増えても仕方ない。
 一生懸命働いて、お金を貯めて『保護猫カフェ』を作る。それが私と約束したことだから。律はそう言っても、やっぱり以前のように会えないことが、話せないことが私には寂しくてたまらなかった。
 律が仕事に慣れて、余裕が出来れば以前のように会えるはず。そう思い聞かせても、切なさは増すばかりだった。

「……美耶、美耶! 次の講義、移動だよ」
「!」
 その言葉に驚き飛び起きた。
「……ハルカ……」
「美耶、大丈夫? ずっと寝てたじゃん」
「あー……うん」
「律先輩と何かあった?」
「え……」
「最近サークルにも顔出さないし、いつも浮かない顔してるし」
「……なんかね。難しい。上手く距離がとれないというか、すれ違ってばっかりな気がして」
「朝は? 毎朝、律先輩に会うために早起きしてるんでしょ?」
「うん。でもそれが、律もいつも眠そうで、疲れているのがわかるんだ」

 私は重い体を無理に起こすと、講堂を出るために荷物をまとめた。

「社会人になって間もないし、今は忙しいって感じなんでしょ?」
「うん、まぁね」
「まだ、律先輩が居たころ、律先輩いつも美耶のこと気にしてたんだよ」
「え?」
 ハルカの言葉に驚き、歩く足を止め、振り向いた。
「何それ。初めて聞いたんだけど」
「そう? サークルのみんなは知ってるよ」
「!? サークルのみんな!?」
「美耶は朝が苦手で起きられないことも、講義中いつも眠っていることも、雨の日は元気がないことも、律先輩はいつも、いつも気にしてたんだよ」
「……」
「いつくっつくかねって、2人のことを、みんな微笑ましく見てたんだから」
「……」
 そんなこと……何も知らなかった。

 私ばかりだと思っていた。
 私ばっかり律が好きで、想いが大きくなりすぎて、重くなっちゃってるって、そう感じていた。
 
 律は、いつも私を見ていてくれたの……?


 夕暮れ迫る駅のホームは、帰りの人々の波にのまれるように外に押し出された。
 上りホームの改札口を出た階段の下。その場所で私は律の帰りを待っていた。


 どうしても、どうしても会いたかった。
 どうしても今日、会いたかった。
 遠慮なんかしたくない、
 私が律を待ちたいんだ。
 もう一度、しっかり今の私の想いを伝えたいんだ。
 
 そうしたら、このすれ違ってしまったような気持ちも、なくなるんじゃないかって思った。

 街灯のあかりが、まぶしいくらいの駅前の風景。足早に通り過ぎる人々を何度も見送って、見つめた改札口。
 やっと見慣れ始めたスーツ姿の律を見つけた。

 その後ろ、髪の長いスーツ姿の美しい女性。伏し目がちに見つめる律の少しだけ口角が上がった笑顔。

「……」

 その、不器用な笑顔を、私は見たかったんだ。
 それを今、あなたは私じゃない人に向けるの?

「美耶……」
「!」
「美耶!」

 私は無意識に走り出していた。
 何とも言えない、吐き気のような胸の苦しさに襲われながら、思い切り走った。

「美耶!」
「! 離してよっ!」

 掴まれた腕を思い切り振り払う。

「美耶、違うんだ。今の人は会社の先輩で、同じプロジェクトチームで……」
「……だから、笑うんだ?」
「え?」
「会社の人だから、ああやって笑うんだ?」

 こんなことが言いたいんじゃない……。

「美耶、何言って……」

「私にはずっとずっと我慢させても、あの人になら律は時間を作るんだ?」

 こんなこと、言っちゃいけないのに……。

「美耶……」

「私なら、どんなに我慢させても平気だって思ってるんだ?」

「……」

「もういい! もう律を信じられない! もう……朝のメールもいらないから!」

「……そっか。わかった」

 いつも無口で表情を崩さない律の、歪んだ顔。
 優しい律の、冷たい声。
 去っていく後ろ姿に、私は何も言えなかった。

 ――――あの日

「待って! 行かないで!」そう言っていたら、あなたは今も私の隣にいてくれたのかな?

 泣いて。
 泣いて。
 泣いて。

 泣いたまま記憶を失くして、そして、泣いたまま目が覚めた、朝。
 泣き過ぎて、息が苦しい。
 薄目のままスマホを取ると、画面に映し出されたのは、いつも起きる時間より1時間以上も後だった。

「はぁ……」

 いつ寝てしまったのかも、それすらも分からない。かけていたはずのアラームもいつの間にか消されていた。
 確認したスマホには、律からのメールも電話もないまま……それが昨日のことが現実だったということを思い出させた。
「……っ……」
 思い返して、また涙が溢れた。
 きっと律は怒っているんだ。だから、毎朝欠かさなかった「おはよう」のメールも今日はない。今頃はもう電車に乗っている時間だ。
 自分がいけないことも、私が律を傷つけたこともわかっている。
 思い返すだけで、涙は次々と溢れた。

 この気持ちを、この涙を落ち着けるように、いつものようにテレビをつけた。
 変わらないはずの番組は、いつものような明るい声も音楽もそこにはなかった。なんとなく慌ただしく感じる画面の中、そこには『速報』と赤い文字で書かれたテロップが映っていた。

『この時間の予定を変更してお伝えしています。午前6時40分ころ、横浜市〇〇区の踏切で〇〇駅発〇〇行、8両編成の快速特急がトラックと衝突しました。消防によりますと男性2人が心肺停止の状態、負傷者は30人に上るということです』
 
 聞き覚えのある駅名。映し出されたのは、見覚えのある景色の中、画面遠くに黒煙が見えた。
 時が止まったように画面の前に座った私は、なぜか動くことが出来なくなっていた。

『事故のあった〇〇駅付近の上空です。電車とトラックの衝突事故で複数の車両が脱線して、大きく横に傾いています。その車両の右側、黒く焦げたトラックが――』

 目に映る映像には、アクション映画のワンシーンのような凄まじい現場が映し出され、画面の中から聞こえる緊急車両のサイレンが耳の奥に響いていた。
 なぜだか分からない胸のざわめき。
 体の震えが私を襲っていた。


『ただ今、新しい情報が入ってきました。心肺停止の状態で発見された男性2人ですが、搬送先の病院で死亡が確認されたということです。トラックを運転していた〇〇 〇〇さん68歳、快特電車の先頭に乗っていた、花崎 律さん23歳、2人の死亡が確認されたということです。神奈川県警の発表によりますと、今日午前6時40分ころ――――』


 あの日「行かないで」そう言っていたら、あなたは今も私の隣にいてくれたのかな――――。


 あれから、もう1年が経つ。
 涙で目覚める毎日は時が止まったように、先へ進まなければという私の心に重くのしかかり、何も見えなくなっていた。

 私は大学を卒業し、社会人なった。
 あの時のあなたと同い年になったよ。

 学生時代と変わらない同じ朝を迎え、変わらない番組の音に身をゆだねた。
 目まぐるしく過ごす毎日は私の心を奪い、それがかえって私の日常を支えていたのかもしれない。
 あの時を思い出してしまったら自分が崩れてしまうのは、わかっている。
 それでも、前に進まなくてはという思いが私を焦らせていた。

 分かっているのに、気持ちはついていけなくて……。

『おはようございます』

 テレビから聞こえた声に目をやると、画面に映し出された日付に息を飲んだ。

 ああ、あの日からちょうど1年――――。

 私はギュッと唇を噛みしめテレビを切ると、家を出た。

 相変わらず朝の弱い私は、いくつものアラームでやっと目を覚ます。あの時のように私を起こしてくれるメールはもうない。
 それでも毎日は過ぎていく。

 少し早く家を出て、駅までの道をゆっくり歩く。この住宅街にいた猫たちの顔ぶれも少しずつ変わって、始めは馴れなかった猫たちも最近は「おはよう」と声をかければ寄ってきてくれるようになった。

 ピロン。ピロン。
 立て続けに鳴ったメールの着信音に、ポケットからスマホを取り出して見るとハルカからの「おはよう」のメッセージ。そのメールを確認している間も、次から次へとメールの着信音が続いていた。

「なに?」

 メールを確かめてみると、猫サークルの仲間から「おはよう」「おはよう。起きてる?」というメッセージが送られてきていた。それは確認するのも追いつかないくらいの驚くほどの数が、同じ時間に幾つも、幾つも、送られてきていた。

「おはよう」
「おはよう」
「美耶おはよう」
「起きてるー?」
「おはよー」

 たくさんの「おはよう」のメッセージだった。

『あ、もしもし美耶? ちゃんと起きてる?』
 突然の電話は、ハルカからだった。
「ハルカ、どうしたの? こんなに早くメールなんて。しかもさ、猫サークルのみんなから、どんどんメールがくるんだよ」
『あ……そうなんだ』
「え?」
 何かを考えるような、言葉を渋るような、そんなハルカの声だった。

『……律先輩からメールがあったんだ』
「……え……?」
 律……?
『突然、昨日、律先輩からメールがきたんだよ。『俺の代わりに美耶を起こしてくれないか』って』
「……」
 ハルカが何を言っているのか理解出来なかった。
『わたしもさ、突然のことでビックリして。そしたら、その時一緒にいた猫サークルの子にも同じメールが届いてたんだ』
「……どういう……こと?」
『分からない。ただ『俺の代わりに起こしてくれ』ってだけ。美耶が朝起きれないのは、みんなが知っていることだから、起こしてほしいって理由は分かるんだけど、不思議なのが、そのメールが届いたのが去年の日付なんだよ』
「え?」
『でもね、受信したのは本当に“昨日”なんだ。たぶん、今メールを送ってきたみんなが、律先輩から『美耶を起こしてほしい』ってメールをもらったんじゃないかって……』
「……」
 そんな……そんな、まさか……。
『美耶、言ってたでしょ。あの事故の前日、律先輩と喧嘩したって。もしかしたら律先輩は、美耶が朝起きられないことを心配して、みんなにメールをしたのかもしれないよね』
「……っ……だったら! だったら、事故の当日みんなからメールがあるはずじゃない! あの日、律からのメールも、誰からのメールも何もなかった。だから私は早く起きられなくて……」

 あ……。

『だから、律先輩が美耶を守ったんじゃないかって。あの日、美耶をいつものように早く起こしていたら、もしかしたら美耶も同じ事故に遭っていたかもしれない』
「……」
『美耶を守りたいから、そのメールを1年後にずらして送ってきたのかもしれない』

 ……そんな……。
 律……。
 律は私のこと怒ってなかったの?
 私を守るために、わざといつもの「おはよう」を、くれなかったの……?

「……律……」

 私はスマホを握りしめ、叫び出しそうな声を押し殺し、泣いた。

 ずっと、ずっと抱えていた想い。
 私が素直になっていれば、律は今も私の隣にいてくれたんじゃないか。そう思うと前へ進むことも出来なかった。

 律は、いつも無表情で、気持ちが掴めなくて。
 でも、いつも、私を見つめ守ってくれていた。

 それは……

『おはよう』

 その声に、私は振り向いた。

「律!?」

「みや~」

 振り向いたその先にいた猫が、私を見つめ、鳴いた。

 それは、まるで律が私を呼ぶように。「おはよう」と声をかけてくれるように、聞こえた。

「律……」

 私は、いつもの駅へ向かうために1歩を踏み出した。
 みんなからの「おはよう」のメールは、数えきれないほど続いて、こんなにも仲間がいることを教えてくれた。

 律、私、頑張るね。
 だから、ねえ、いつまでも私を見つめていて。

 力強く歩み出した私は、きっとまた、いつか、律の「おはよう」が聴こえる。


END



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