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五月に京都で想うこと。

研修医として働き始めて2ヶ月。慣れない環境に戸惑いながらも、労働という感覚を覚えることなくお仕事ができていて、良い環境に恵まれ、やっぱり医療に関わるのは面白いことだなあと感じています。
ただ、学生の頃より深く医療に首を突っ込んだ分、もやもやとした感情がもこもこ大きくなるのも同時に感じています。とりあえず今感じていることを書き留めておこうと、つらつら書き連ねていこうと思います。

1.あなたの命は誰のもの?

もやもやを感じることは色んな場面でありますが、それを感じた一つの例を紹介します。

94歳女性。施設にて心肺停止になるも蘇生され、救急搬送。心筋梗塞が疑われてカテーテル室へ。

入所していた施設から運ばれてきて、検査をしてみるとSTEMIと呼ばれるタイプの心筋梗塞でした。Door to balloon time 90分以内といって、要するにカテーテルの治療を一刻でも早くするべき種類のものです。だからもう、ものすごい速さで治療へと進んでいきます。

本人からしたら、意識を失って三途の川を渡りかけ、ところが運が良かったのかこちら側へとぐいっと引き戻され、気づけば病院、大勢に囲まれ鼻や手から管を突っ込まれ、パニックだよなあ。何が起きているのか、分からなかったよね。

鼻から胃管を入れるとき、そんなおばあちゃんと目が合いました。苦しそうにえづくおばあちゃん。弱々しくも必死に体を動かし抵抗する。

もうやめて。
助けて。

どちらにも思えたその表情。
医師としては管を突っ込むのが正解。もちろん管は突っ込んだし、先生方はカテーテル治療をしました。すべてきっと正解です。
でもこの光景は何だろう。

そのまま逝った方が幸せだったのかもしれない。誰かがそう言った。
入院した後のカルテには、『次に同じことが起きたときには、心臓マッサージ含め治療はしないでください』といった旨の警告文。

カテーテル検査の威力は凄まじいです。心臓の血管がどん詰まりしていたけれど、先生方が迅速に治療をし、笑顔で退院された患者さんをたくさん見ました。本当に良かった。

でもところで、先に挙げた94歳の方にとって、カテーテル治療はどんな意味を持ったのでしょうか。ありがたかったのかな、いらなかったのかな、どうだったんだろう。

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病院で求められる治療介入へのスピード感

あなたは治療を望みますか?
この質問に対する答えを、すぐその場で返答できる人はどれだけいるだろう。

例えば風邪を引いた時。何かお薬を出しましょうかと言われたら、「まあもらっとくか」でいい感じ。
1週間の入院が必要です。そう突然言われても、治療をして痛みがとれて元の生活に戻れるなら、仕事を休んで入院する場合が多いでしょう。
でも、人によっては入院しても、元の生活に戻れないことが多々あります。特にお年寄りは入院すると寝ている時間が増え、体力は落ち、認知機能が悪化し、歩けなくなる。そうすると家族は面倒を見れない、施設は受け入れてくれない。そうして病院で最期を迎える。そういう方はたくさんいます。もとの生活に戻れない、というよりは、元の身体機能には戻らない。

治療の必要な状況です、入院が必要です。医者がそう言ったら正解に聞こえてしまう。というより医学的にはそれが正しい。だけどあなたの人生にそれは本当に必要でしょうか?入院したら体が元に戻るかと言われたら、そんなに医療は万能ではありません。だって人は老いるし、いつかは死ぬから。医療で不老不死にはならない。

ただ、きっと家族にも余裕がない。選択肢がない。
そんな突然体調が悪くなったと聞いたって、うちでは日中家に人もいないし、施設だって空きがないし、在宅医療ってあまり馴染みがないしこんな状態じゃ診てもらえなさそうだし、病気になったら入院するのが普通でしょ?そう思う人が多いでしょう。患者さんと話している医師ですら、入院以外の選択肢には詳しくない場合が多い。そしていざ救急車で運ばれた先の医師と、それらを踏み込んで話すほどの付き合いや関係性はそりゃあない。

死というものが生の延長線上に存在していない。連続的なものでなく、なめらかに接続していない。だからどうそこに近づいていくかを考えることができない、考える機会がない、“いつか”考えればいいや。
そういう雰囲気を時折感じることがあります。だからいざ体調が悪くなった時に、医学の正解とされるレールの上にそのまま乗って、どんぶらこ〜どんぶらこ〜と運ばれていってしまう。気づけばこんな結末なの?となってしまう。しつこいけれど、レールに乗っていい場合はたくさんある。でもそれで本当に良いの?という場面がたくさんある。

人は死ぬ。

よく余命という言葉を使いますよね。がんで残り一年の命だと余命宣告されたとか。でもあれはがんに限った話じゃない。ざっくりとした話をすれば、心不全になると5年で半分の人が亡くなる。大腸がんの5年生存率より悪いんです。アルツハイマー型認知症と診断された方は平均5年ほどで亡くなるという研究があったり。色んな理由で人は弱っていく。死へと近づいていく(別に”死”に対してネガティブな意味合いを持たせて言っているわけではありません)。

ところで、あなたの健康はだれのもの?
誰かに丸投げしてもいいけれど、それで本当に幸せでしょうか。

どうやって最期を迎えたいか。どうやって死んでいきたいか。それをもっと自分ごと化したほうが良い気がします。

突然話は変わるけど、僕は眼鏡が好きです。そして買う眼鏡についてはある眼鏡屋さんのある店員さんにしか相談しません。その人におすすめを聞いて、実物を見てみて、自分でかけてみて、その上で買うかを決めます。
買った眼鏡をかけるのは自分自身です。何か不満が合ったとして、それをその店員さんのせいにできるかも知れないけど、責任は自分でしかとれない。自分が使うものだから。

死だってそうやって選んで行くべきじゃないのかな。医者に文句を言ったって、病院に不満を持ったって、死ぬ人はあなたで、その死に方をするのはあなた自身です。その経験は、あなたに帰属します。医者ではない。医者は真の意味で責任を持てない。あなたの体は、あなたが乗るものなのです。

なんで僕がその店員さんにしか眼鏡のこと聞かないか。それはその人が眼鏡に精通していて、その上で僕に合うだろう眼鏡をリストアップしてくれるから。眼鏡を酒の肴にできるというその変態店員さんは、流行りがどうとかではなくその人にあった眼鏡を提案してくれる。ある時他の店員に接客されて、ただただ流行がどうのこうのと言われた時は本当にひどかった。

僕は眼鏡が好きだから眼鏡にこだわる。人が何に重きを置くかは人それぞれだから、誰もが健康について考えるべきとも思わないけど、自分にとって大切なことはもう少し自分で考えたほうが良いとも思う。
信頼できる医者と出会うこと。医療者が様々な選択肢を知っていること。自分の体は自分自身が責任を持たなければいけないこと。いわゆるポジティブヘルスや、小学校から自分の健康について考える、といった紅谷先生のされていることにも通じる。

そういう豊かな選択を、”死についても”できるようになったらいいなあ。

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2.ぐるんとびーに行って思ったこと、に続く。

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