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言葉のオーラ

言葉の持つ輪郭

僕がイギリスに留学していた時、初めて母国語以外で日常生活を送った時に考え始めたこと。今でもたまに考える。

自己紹介をする時に使う“よろしくお願いします”、英語でなんて言えばいいのか分からなくて、辞書で調べていた気がする。よろしくお願いします、その一言は想像以上に多くのオーラを纏っていて、英語でしっくりくる言い回しがなかったのは、その言葉が切り取る形が違ったからなのかな、って考えた。

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イメージを彫り出す道具としての言語

夏目漱石の夢十夜、その第六夜に、運慶が仁王像を木から掘り出す話があって、話の本筋とは関係ないのだけど、その光景が頭の中に過ぎる。彫り師の頭の中だけにある理想の像を、丁寧に丁寧に形にしていく。道具を使いこなし、洗練された技術がなければ理想の像は生まれない。
言葉というのは、自分の頭にある感情や考えを、それが相手に伝わるように彫り出すための道具だと思う。“リンゴ”というより“緑で1メートルくらいあるリンゴ”と言った方がより想像しているものに近く彫り出せる。小説を読んでいて今まで知らなかった表現を見つけたり、英語の文章でこんな言い回しするんだ!って感動するのは、その彫り出し方をまた一つ手に入れたからなんじゃないかな。
豊かな語彙を持っていればそれだけ綺麗に彫り出せるし、それだけ正確に相手の言いたいことを受け取れる。その確率が上がっていく。
でもどんなに努力しても完全に一致させるのは多分難しい。そもそも全てをうまく彫り出せるだけの語彙は存在しない。それに、共有されているはずの言葉の前提ですら、人によって微妙に、時に大きくずれる。

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がんの告知と言葉の定義

僕のおじいちゃんが前立腺癌を告知された時、僕は一緒に診察室にいた。
たくさんの患者を診療してきたその医者はきっと、前立腺癌の予後は一般に癌の中ではかなり良い方だということを知っていたから、あっけらかんと癌という言葉をおじいちゃんに放り投げたけど、おじいちゃんは多分頭が真っ白になっていた。
帰り道で初めておじいちゃんの涙をみた。

癌って言葉なんて誰でも知ってる。でもその言葉の持つオーラや、心に掻き立てる感情の程度や規模は、人によって千差万別。あの医者はその差を丁寧に埋めようとすることを怠り、というかそもそもそのことに意識が及んですらいない、そんな人間だった。

日常生活でここまで考えるのは疲れるかもしれないし、大変なことだけど、気を遣った方がいい場合って多分ある。その差を埋められなくても、そのことに気を払って努めているのなら、それだけで相手の受け止め方も違う、そう思う。

手術説明書


リモート実習の中の課題で、患者さんに対しての手術説明書の作成というものがあった。
手術説明書というのは患者さんに対して、今の病気はこんな感じで、こんな種類の治療法があって、手術をするならこんなやり方で、良い点はこんなことがあるけど、もしかしたらこんな副作用があるかもしれない、というのを“噛み砕いて”説明する文書のこと。最後にはそれを読んで理解しましたよ、と患者さんにサインしてもらう欄がある。

これを参考に作ってねと渡された実際の手術説明書。そこに溢れていた医学の世界の言葉。“最小侵襲手術”、“筋肉を切離”、”自家骨や他家骨”、“股関節を屈曲するような動作は避けて”、“脚長差の補正”。たいして図も載せずにダラダラこんな文章書いて伝わると思ってるのかな、患者さんが後で見た時わかると思ってるんでしょうか。
患者さんの理解度を馬鹿にしてるとかそういうことではなくて、これらの単語って一般的に使われてはいないと思うのです。少なくとも医学部に入るまでは知らなかったり意味が汲み取れない専門用語だと思います。

相手の脳内辞書にその単語は存在するだろうか、あるとしたらその意味は本当に自分のものと同じだろうか。いちいち考える必要はないけど、手術ってとても大きな選択じゃないのかな。医者にとっては日常茶飯事だから、そこにすらズレがあることへの知覚は無意識に鈍麻してる。こういうことを大切にできる医者でありたいし、人間でありたいなあ。

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