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表現の世界

読書感想文やレポートなど、これまで自分自身の想いを言葉にする場面はいくつもあった。
その目的は大抵評価を貰うためのもので、考えてみれば書きたくて書く文章とは質が異なる。

端的に私はお喋りが上手ではない。
誰かと絶え間なく話して時間を忘れる経験もお酒の場以外ではほぼないし、レスポンスも鈍い方だと思う。それゆえに概ね聞き専に徹することが多く感情の起伏もそこまで激しくはない。
周囲がそれを「落ち着きがある」と評してくれることがまだ救いである。

ただやはり高速で、かつ楽しく、エラーをすることなくキャッチボールをする人達を見ると羨ましいものだ。言葉の引き出しの多さと、それを瞬時に活用する能力に惹かれるのである。

そしていつからか、自分の想いを表現するため言葉を綴るようになった。スピード感あるキャッチボールへの憧れは依然として残したままである。
ただ、文字の良いところはスピードを求められない。
会話のキャッチボールはいわば消費期限の短いナマモノで、いわゆる「間」と呼ばれる空気感をどれだけ瞬間的に上手く扱えるかが肝である。

それに対して文字は「間」を気にすることがほぼない。行間を読むという意味での「間」があるが、文字での表現は人前に出るまで時間のかかる保存食品なのである程度は無くても許容できる。
(行間のあるしなやかな文章も書きたい)


ある時は気候、ある時は見つけたもの、ある時はふと考えついたこと。
多くは私が感じたことをテーマに少しずつ膨らませて思う通りに書き進めている。

しかし急に書き出してアウトラインも何もないもんだから構成がめちゃくちゃになり、最終的に書きたいことを見失って没にすることの方が多い。だがそれも私の一部を保存し熟させているということで良しとしたい。

要は発露する感性をどこで表現するか。
それを私は求めている。
そして私の場合は「間」を重要とせず少しずつ熟していきながら完成を待つ執筆へと向いたのだ。

口下手な私はレスポンスが上手くいかないことで自分の想いを見失うことが多い。そういう意味で自分をテーマにした執筆をすることは、自分が本当に感じていることを理解するために最適なのだ。

たとえ言葉選びが上手くいかず没にしても、残した言葉はまた何かのきっかけに触れていきたい。

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