読書感想文やレポートなど、これまで自分自身の想いを言葉にする場面はいくつもあった。 その目的は大抵評価を貰うためのもので、考えてみれば書きたくて書く文章とは質が異なる。 端的に私はお喋りが上手ではない。 誰かと絶え間なく話して時間を忘れる経験もお酒の場以外ではほぼないし、レスポンスも鈍い方だと思う。それゆえに概ね聞き専に徹することが多く感情の起伏もそこまで激しくはない。 周囲がそれを「落ち着きがある」と評してくれることがまだ救いである。 ただやはり高速で、かつ楽しく、エラ
甲子園が終わった。 私は特段野球に興味があるわけではないが慶応大学の優勝が実に107年ぶり2度目とのことで目を引くには十分すぎる数字だった。この頂きへ至るまでたゆまぬ努力を積み重ねた球児たちへの労いと讃辞を送りたい。 普段情報は専ら情報系アプリで収集していて、アプリを開くたび私の閲覧履歴をもとにアルゴリズムがおすすめ記事を紹介してくれる。そのトップに甲子園の記事を見つけて読み始めた。 号外が配られたというもの。選手の地元の方々がスクリーンから応援している喜びに満ちたもの。
鈍色の感情に落ち着かない夜もある
言葉で表せるものはデータと現象 1人の人間として生きていることを考えた時に本当に欲しいものはデータや現象か? これは著書の中で語られたことについての言及 本書では真理の探究をし結果的に「解決した」と明言されている その解はすなわち「解なし」 しかし人間社会では対話・会話をしない訳にはいかない 言葉では理解できない、つまり「解なし」状態にも関わらず言葉でしか伝えられない矛盾を抱えている 話す内容、聞く内容に対して反芻することがある 大抵、反省し批判をする 信用のある正確
女性は、というより、女性の方がといった方が正確だろう。 痛み分けのつもりではないが男女互いにマーケット拡大にしろネットミームにしろ何かしらネタにされている。昨今は特に美醜コンプレックスの植え付けが凄まじい。 それでもいざどちらかの性が取り沙汰されればイタチごっこにしかならないのが現実である。 誰も彼も自認する性を守ることで自身を守りたいのだろう。自認する性を蔑ろにされることは、「私」という内面を無視した勝手なイメージを押し付けられることである。 女性の場合は特に顕著で、「
最近、生活環境が大きく変わり、8年間の1人暮らしから寮生活へシフトした。 それも寮生ではなく寮監として20名の大学1回生と共に1年間共同生活をすることに。(任期は2年) 1人暮らしが長い上に共同生活すらしたことのない人間に監督者が務まるのか不安を懐きつつ1ヶ月が経過。 体感は”まだ”1ヶ月なのか......と思いの外に充実。 新しい環境に体が馴染んでいないというより日々の濃さに喜んでいる。 むしろ初めから真面目さのカケラもなかったかも知れないという点では馴染むもクソもない
「場」をどう捉えるか なぜその場にいるのか 何を目的としてそこへ行く現象が起きているのか 例えば、呼ばれたから、暇だから 理由は様々だろう しかし、選択肢として行かないこともあったはず この場合、行くという選択結果や意志決定に重要性はない 行くか、となるような要素を「場」に感じるその感受性が重要なのだ 言ってしまえばそこへ行こうが行くまいがどちらでもよくて、対象となる「場」をどう捉えているか それは自身の感受性を掴むきっかけである 何においてもそうだ 行く、とい
明けましておめでとうございます 投稿してないなーと思いつつ気が付けば年を越していたよ さて、今日は成人の日 めでたい日です、お祝いでございます 僕んときは朝まで飲んで、出勤する人たちの傍ら、赤ら顔で電車に乗って帰宅してたのが懐かしい そんなことをしている自分がなんだか少し大人になれたような気がして2つの意味で酔っていました それから数年経ち、いま大人としてふるまえているかほとほと怪しいけれど、大人ってなんだとかを考えるのは、繰り返されるイニシエーションじみていて僕は好き
20年前、僕は6才でした。それをリアルタイムで見ていたか定かではないけれど、テレビの画面を見て硬直していたと思う。世界情勢を知っていた大人たちは別の意味で硬直していたのでしょう。何しろ当時の僕にとっては作り話のような映像そのものでした。 あの日あの場所ではその瞬間まで多くの人が生きていました。人が生きることは人生を経験と共に歩む中で自分の想いを更新しながら日々を循環していくことだと思います。各々は各々の循環の一部であり、それが人と人との繋がりでもあります。 だから、繋
お久しぶりです。 処暑の候いかがお過ごしでしょうか。 相変わらず自己嫌悪の日々でしょうか。 さて、立秋もとうに過ぎ時候は処暑となり、この間コオロギの鳴き声を聞きました。 これが本当の虫の知らせ。 ということで今回は秋についてのお話です。 最初に処暑とはなんぞやというところからですが、ウィキペディアさんによれば 暑さが峠を越えて後退し始めるころ とのこと。これに関する正否の判断は各々に預けるとして、僕は時候の表す季節感は体感とむしろ違う方が「まじ?もう秋?まだ暑くね?」