L・ランダル・レイ「MMT現代貨幣理論入門」は貯蓄の意味をどのようにすり替えたか?

L・ランダル・レイ(L. Randall Wray)は「MMT現代貨幣理論入門」第4章のコラムで次のように議論している。

(質問)日本の高い貯蓄率は、巨額の政府赤字、および(経常収支黒字のおかげで)貯蓄がほとんど海外へ流出しないことの結果だと確認できるか? そうであれば、日本の貯蓄率は政府赤字がほぼ決定づけていると推測できるか? つまり、政府赤字が貯蓄をもたらすのであって、貯蓄が赤字を可能にするわけではないのか?

(回答)そのとおりだ! 日本の政府赤字+経常収支黒字=巨大な国内貯蓄。これは、恒等式によりぴったり一致する。実のところ、因果関係は、標準的なケインズ経済学が示すとおり、支出から所得さらには貯蓄へと、あるいは注入から流出へと向かっている。日本の「失われた20年」——低成長——は、非常に大きな財政赤字を生み出した。財政赤字と貿易黒字が国内の純貯蓄の要求を満たすので、この巨額財政赤字は経済の完全な崩壊を食い止めるのに十分なものである。確かに、タンゴは2人いなければ踊れない。現代の政府財政には構造的な調節機能があり、景気後退時には税収が減り支出が増える。その景気後退は、支出意欲を妨げる総需要不足の結果だと考えられる。さらにそれは、(とりわけ流動性の高い形での)貯蓄選好から生じている。つまり、民間部門は政府の負債での純貯蓄を望み、それゆえ支出を嫌い、貯蓄の欲求を満たすために財政赤字が生み出される。確かに因果関係は常に複雑だが、これが今できるおおよその説明である。日本は20年間の低成長に加えて、セーフティーネットが十分でない。それが貯蓄を完全に合理的なものにし、ひいては低成長、そして財政赤字を生み出している。しかしながら、貯蓄は財政赤字(と貿易黒字)がなければ生まれないので、財政赤字が望まれる貯蓄を実現していると言ってよい。
L・ランダル・レイ「MMT現代貨幣理論入門」東洋経済新報社 pp.237-238

 ここでレイは貯蓄という言葉の意味をすり替えている。少なくとも通常の意味で使ってはいない。レイが上の引用箇所で述べているところでは、

財政赤字+経常収支黒字=国内貯蓄

 という等式が常に成り立つという。ところでマクロ会計の貯蓄の等式は、レイ自身が同書p.74で述べていたところでは(そして普通のマクロ経済学でも同様であるが)、

S=(G-T)+I+NX

である。Sは国内貯蓄(Y-C-T)、G-Tは財政赤字、Iは民間投資、NXは経常収支黒字を表している。これをレイの先ほどの表現に対応するように移項すると、

(G-T)+NX=(S-I)
財政赤字+経常収支黒字=国内貯蓄

 つまり、ここでレイは国内貯蓄をSではなく(S-I)として、すなわち国内貯蓄から民間投資を控除したものとして再定義していることになるのだ!

 貯蓄をこのように定義することはナンセンスである。例えば家計が所得の半分を、直接にであれ間接にであれ、企業の証券の購入に振り向けている経済を考えよう。税・政府支出・経常収支はいずれもゼロとする。普通のマクロ会計の言葉では、この経済の貯蓄率は50%である。当たり前である。ところがレイの定義を使うと、家計の貯蓄と企業の投資が打ち消しあって、この経済の貯蓄はゼロ、貯蓄率は0%になってしまう! 別にそういう定義を使いたければ使うのは自由だが、そのように定義された貯蓄概念に果たしてどのような有用な使い道があるのか、またその珍妙な概念をあえて貯蓄と呼ぶことにいかなる意味があるのか、私には分からない。

 おそらくレイ自身は自分が貯蓄概念をすり替えていることを理解しておらず、引用箇所の議論は混乱したものになっている。レイによれば「貯蓄は財政赤字(と貿易黒字)がなければ生まれない」。レイの定義を採用するならこれは当然である。そうなるように貯蓄概念が定義されているのだから。レイ以外の誰もが使っている(そしてレイ自身もp.74では使っていたはずの)定義を採用するなら、もちろんこれは誤っている。私が先の段落で挙げた例のように、家計部門が企業部門に貸し出す形で高い貯蓄率が実現されることがあり得るからである。

 レイはここでデータを示していないが、日本経済の各部門の資金過不足のグラフを載せておこう。レイの説明では、民間部門の貯蓄への欲求に応えて政府の財政赤字がそれを満たしている、つまり財政赤字が民間部門の高い貯蓄を実現しているのだという。

日銀の資金循環統計から作成した。縦軸は億円。1980~2021
こちらは対GDP比。但しSNA改定の関係で期間が上のグラフと違っているため注意。1994~2020

 ところがレイのいう「民間部門」の内実をみると、家計部門の貯蓄率は2000年前後にむしろはっきりと低下している。一方で、それと歩調を合わせるようにして企業部門の資金調達が減退していることが見て取れる。するとレイに反して次のような解釈も可能である。増加した政府の財政赤字を家計部門の貯蓄では吸収しきれず、企業投資がクラウディングされるに至った。私はこちらの解釈の方が正しいとここで主張するつもりはない。ただ、いずれの解釈が正しいかは、レイのように会計上の等式を弄んでいるだけでは決定不能である、と言いたいだけである。

 レイは、ある部門の資金収支が黒字であるとき他のいずれかの部門の資金収支が必ず赤字であることを指して、「タンゴは2人いなければ踊れない」という言い回しを好んで使う。だが私はむしろ、「上り坂の数と下り坂の数は必ず等しい」という比喩の方がより的確であろうと思う。それは論理的に自明に正しいが、それゆえに何も語らない。

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