経済成長率と政府債務残高対GDP比の相関を取ることが正しい理由——東洋経済の中野剛志の記事を批判する

財務省の財政制度分科会において、政府債務の拡大が経済成長につながっていないことを示す図表が配布された。

2024年4月9日財政制度分科会資料 p.6

中野剛志氏(以下敬称略)は東洋経済の記事でこの図表を批判し、反論している。その主張は私の見るところ、次の4つにまとめられる。

  1. 政府債務と経済成長の関係ではなく、政府支出と経済成長の関係を問題にすべきである。

  2. 経済成長率と政府債務残高対GDP比(政府債務残高/GDP)の相関を取ることはナンセンスである。

  3. 経済成長率と政府政務残高の相関を取るのであれば、政府債務残高対GDP比ではなく政府債務残高そのものを使用すべきである。そして経済成長率と政府債務残高には正の相関がある。

  4. 政府支出から名目GDPへの因果性が存在する。

これらの主張はいずれも誤っているか、重大な問題を含んでいる。以下でそのことを示す。


1つ目の主張について

中野は、政府債務残高と経済成長の関係ではなく、政府支出と経済成長の関係を問題にすべきであると主張する。中野は2つの論拠を挙げている。1つ目は、政府支出の増加が政府債務残高を拡大するかは理論的に自明でないということ。なぜなら税収にもよるから。中野の言う通りであろう。だから、政府債務残高と経済成長、政府支出と経済成長、両方の関係を考えるべきである、というだけの話である。前者の関係を分析することを否定する理由にはならない。

 中野が挙げる2つ目の論拠は、政府債務残高は直接コントロールできない(先述したように政府債務残高は税収にも影響されるが、税収は経済状況によるから)が、政府支出はコントロール可能である、というものである。しかしコントロールという概念が既に問題含みである。政府支出は税収+政府債務残高の増加の範囲でしか実行できないが、政府債務残高を拡大できるかどうかは引き受け手の判断にもよる上、税収はコントロールできないと中野自身が認めている。反対に、税収だってある程度までは予測可能なのだから、国債発行額を操作することで政府債務残高もある程度までコントロール可能である、という話もできるだろう。ここで中野が使用している直接コントロールという概念が果たして経済を分析する上でどれだけ意味のある概念であるのか疑わしい。

2つ目の主張について

中野は「債務残高をGDPで割った値は、GDPが大きくなれば小さくなるに決まっている」から経済成長率と政府債務残高対GDP比の相関を取ることはナンセンスであると主張する。GDPの水準と政府債務残高対GDP比の相関が問題になっているのであれば中野の言うことは理解可能であるが、経済成長率はGDPの水準ではなく、GDPの変化に関する概念である。ある変数Xが大きくなった場合にその変化△Xが大きくなるか小さくなるかはデータの中身次第である。

 加えて、経済成長率との相関を取る場合に、政府債務残高をGDPで割ることには積極的な根拠がある。経済成長率自体がGDPで割った値であるということだ。
 経済成長率=(翌期のGDPーGDP)/GDP
である。つまり経済成長率は既にGDPで除すことによって経済規模による違いを調整した値なのだから、これを回帰させる先である政府債務残高についてもGDPで除して経済規模による違いを調整することは、何もおかしなことではない。

3つ目の主張について

中野は2つ目の主張の延長で、もし経済成長率と政府債務の関係を分析するのであれば、経済成長率との相関を取るべきは、政府債務残高対GDP比ではなく、GDPで除す前の政府債務残高そのものである、と主張する。そして三橋貴明氏(以下敬称略)のブログを参照しながら、経済成長率と政府債務残高には正の相関があると述べる。

 中野に反して、経済成長率と政府債務残高対GDP比の相関を取ることが意味のある分析であることについては既に述べた。そして、これも中野と三橋に反して、実は経済成長率と政府債務残高の相関を分析することにこそ意味がないのである。「2つ目の主張について」の中で論じたとおり、経済成長率はGDPで除すことで経済規模が調整された数字である。それをGDPで除す前の政府債務残高に回帰すると、経済成長率と経済規模との関係が分析の中に混ざってしまう。

 例えば日本と韓国の経済成長率のどちらが高いかは自明でないが、両国が概ね似たような経済発展の段階にあり、似たような政策を採用しているのであれば、日本の方が政府債務残高が大きいことはほぼ自明である。日本の経済規模のほうがずっと大きいからである。別に政府債務残高でなくとも、経済規模を調整する前のほとんどあらゆるマクロ経済的な残高について、日本の方が大きいであろう。

 したがって、経済成長率と政府債務残高の相関を取ったとしても、単に経済成長率と経済規模の相関を分析してしまう結果になるか、少なくともその影響が混ざってしまい、経済成長率と政府債務に関する適切な分析にならないのである。

4つ目の主張について

中野は朴勝俊氏(以下敬称略)の論文を参照しながら、政府支出から名目GDPへの因果性を主張している。いや、中野と朴のために正確を期すなら、あくまで中野自身の主張ではなく「因果性の検討まで行っている」としてこの論文を紹介している形ではあるが、いずれにしても好意的に参照していることは確かである。

 朴はこの論文で、政府支出と名目GDPのグレンジャー因果性を分析している。グレンジャー因果性というのは、平たく言うと、ある時系列の自己回帰分析による予測が別の時系列を用いることで改善する場合に、後者から前者への因果性があるとする考え方である(前後即因果の誤謬があり得るため、普通の意味での因果関係ではなく、あくまで「グレンジャー因果性」という特別の概念であると考えるべきである)。例えば下の図のようなデータでは、XからYへのグレンジャー因果性があるということになる。

図はWikipediaから

 朴の論文の内容は、朴自身による解釈の部分を措いて実際のデータの操作だけをみれば以下の通りである——政府支出と名目GDPを分析したところ、後者から前者へのグレンジャー因果性が示唆された。しかし、政府支出について何期か後の時点にずらしたデータを使って改めて分析すると、逆に前者から後者へのグレンジャー因果性が示唆された——。

 はて、XからYへのグレンジャー因果性があるときに、どちらかのデータをいくらか勝手にずらしてしまえば、YからXへのグレンジャー因果性になるのは、ほとんど当たり前ではないだろうか?

上図改変

 であるから、この分析の正当性は、期をずらしたデータを使うことが正当化できるかどうかに掛かっている。しかしこの点については、発注は実際の支出時点よりもいくらか先行するであろうという仮説が述べられているだけで、この仮説自体については検証されないのである。したがって、この論文の意義は高々、名目GDPから政府支出へのグレンジャー因果性に対して、もし政府支出について期をずらしたデータを使うことが正当化できるならば逆の因果性も得られる、という疑義の余地を示したことにとどまり、政府支出から名目GDPへのグレンジャー因果性を積極的に論証するに至っていない。

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