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君はどう生きるのかを哲学する


丑婆は、地味に生き、静かに死んでゆくことにする。
大きな大志など今はない。
大きな夢もなし。
もう直ぐ63歳になるが、2年後は高齢者と言われる仲間になる。
昭和30年代生まれも、高齢社会の高齢者の一員となる。
生産性がなく、体力も気力も
衰える年齢になる。

この歳になると、どう生きるのかではなく、どう死んでゆくのか?とも言える。

世の為、人の為に生きたいのか?
超高齢者社会の日本で、長生きをすることが、世の為になるのだろうか?
少子化の中で、身体も老化し、脳の働きも低下し認知機能も衰え介護を受け、人の世話なりながら生きざる得ない年齢になる。
そんな人間が人の為になっているのか?

世の為や人の為に生きるのではなく、自分の為に生きる。

自分の為とは、自分勝手に自分だけの為に生きる訳ではない、自分を愛するということを意味する。

今更なにを言ってるのか?
ということになるが、今更だから言えるのだ。

丑婆は、人間関係は決して上手ではなかった。
その都度、人生の場面で出会いは多くあった。
影響を受けた人々も多くいた。
創造に向けて集って人間関係もあった。
しかし、それは一期一会の出会いであった。
時間と共に消えてゆく人間関係であった。
その時々の出会いに感謝はしている。
「ありがとうございました」
そして、「ある意味で皆様のことを理解出来なかったこと、ごめんなさい」と出会った人に想いを寄せる。

最期に後悔のない人間関係を結びたい人とは自分自身だ。

私は自分自身を愛しきれていない。
つまり、自分の為に生きてこなかった。
切にそれを感じるのである。

人生の場面で、私が大きな
成功を収めなかったことも、
様々なチャンスがありながらつかめなかったのも、「自分自身を愛してなかった」結果である。
もっといえば、大きな成功などあってもなくても、自分を愛していれば、どうでも良いことでもある。

世間がどうであれ、周りの人達がどうであれ、どんな反応があっても、なくても自分が
自分を愛していればそんなことに振り回されずに、淡々と自分の為に生きることが出来たであろう。

丑婆は、無意識で人の顔色を伺い、人の意見に迎合し、人の都合で自分の態度を変かえ、考えを変えていた。

自分を愛せないからこそ、他人に愛して欲しいと、他人任せで、自分の価値を決めていた。
他人の意見や態度によって、一喜一憂して悩み落ち込んでいた。

「他人に愛してほしい。なぜなら、自分は自分を愛さないからだ」
長い人生をかけて、他者の反応で生きてきた。

他人には他人の人生があり、
他人もまた自分の為に生き、自分を愛することする。

他人に愛してもらっても、自分が自分を愛さないと自分でない。

自分と言う器があるだけで、
自分という中身が他人の評価や思いだけとは、自分ではない。

自分を愛するということは、
自分の器に自分を思いと感情を入れること、世界に一つしかない自分という作品を作り上げること。

それが、自分を愛することになり自分の為になる。

#哲学 #生きる #愛する
#人生