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生きる(それでも人生にイエスと言う)

自殺も出来ず、家出も出来ず、生きながら死んでいる。死ぬ勇気もなく生きる希望もない13歳の丑婆であった。

私が小学5年の時、義理の母親が離婚、腹違いの妹を連れて家を出て行った。
祖母は、脳梗塞で寝たきりになり、病院に入退院を繰り返していた。
小学
5年の私は、祖母の介護と父親の妻の代わり、家事をこなしていた。
今から振り返ると子供が子どもらしく暮らしたいことを我慢し、私がなんとかしないといけないと、歯を食いしばって生きていた。
祖母の下の世話、父親の晩酌に酒を注ぎ、父親の愚痴を聞いていた。
家族でデパートに行ってきたとか遊園地に行ってきたと家族で楽しい経験はない。
当時は大阪で万国博覧会があった。私達の街の小学生はほとんど遊びに行っていた。
父親は万博など行かなくてよい!と一言、私は万博に行かなかった。

布団に潜り込んで、声を立てずに泣いていた。

「なんで?私だけが?こんなめにあうの??」
「なんで生まれきたの?」
毎日の問いかけだった。
息が止まりそうな喘息発作も、小学5年生ごろには止まっていた。
身体は丈夫になったが、精神的には、鬱であったのかもしれない。
誰にも言えずに一人で抱えていた。
「誰も助けてはくれない」
「私は一人ぼっちだ。」
「誰もわかってくれない。」
「寂しい……
「苦しい……

小学校に行くことが楽しみであった。学校に行けば、小学生でいられた。給食も美味しいかった。
家では、ゾウ菜を買ってきたり、私の不器用な手作りカレーを食べたり、なんとか、料理のようなものを作っていたが、まずいものであった。
小学校にゆくのが楽しみという、希望をもって、なんとか生きていたのであった。
小学校6年に上がる前に、父親は、3日目の再婚をして、自分より年上の女性を連れてきた。
「今日からお母さんと呼んでくれ」父親から紹介された。
一瞬、喜びがあった。
祖母の介護
父親の妻の役割
家事から解放される!!
私は私らしく子供に帰ることができるのだ。
この女性をお母さんと呼べば、子供に帰ることができる。
希望がみえた……そう、希望がみえた気がしただけである…………

三回目の母は、父親のオンナであった。父親は年上のこのオンナにゾッコンであった。
オンナといつも出かけ、飲み歩き、パチンコにいそしんでいた。
オンナは祖母の介護もせずに家事も私に全て押し付けた。
オンナは、私が父親の娘であることが、憎らしいのであった。
父親が私と話たり、父親が私にかまったりすると、嫉妬で不機嫌になった。その嫉妬で父親に私がいかに自分(オンナ)のゆうことを聞かないだの、反抗するなどタラタラと告げ口をした。
そして、父親に私を殴らせるのである。父親は酒の勢いをかりて、私を殴の頭をなぐりつけた。それで、オンナの気持ちはおさまるのである。

オンナの前に土下座をして、すみませんと何回も謝る。
オンナはタバコを吸いながら無視をする。
頭を畳にすりつけながら、
「死ね!」と心の中で何百回も叫んだ。
3日間食事なしの虐待もあった。
風疹にかかり、死にかかっていたが、自力で医者にいった。
風疹の姿を見たオンナは
「気持ち悪い」と呟き私の前から逃げた。

「なんで生まれきたんだろう」
生きた心地はしなかった。
生きているこの世界をこの家族をこの環境をこの私の人生を恨んだ。
死んだほうがましかも
いや、まだ早い。
いや、死にたい。
死ぬのは怖い。
なぜ?
なぜ?
生まれきたのか??
その繰り返しだった。
DV被害者の私は、家庭では、やられっぱなしだった。
心が折れ荒れて果てた私は、大好きな小学校で暴れていた。
家庭での抑圧した感情を一気に噴き出した。
幸せそうな、同級生をいじめることが、精神の鬱積から解放できた。
幸せそうな同級生、勉強できる子、優しい子をいじめてることで、心のバランスを保っていた。
自分が家庭でオンナに土下座をし、ごめんなさいといっても、何度いっても、許してもらえない。
あの屈辱を幸せそうにみえる同級生に、味合わせてやりたかった。
直ぐに、先生に報告され、PTAにも話題にのる、問題児になった。
私は、先生の前で、謝らなくてはならなくなった。
「ごめんなさい」
私は、ここでも謝ることになった。
しかし、父親もオンナもそんなことは、学校から聞いていたのかどうかもわからない。いじめの件は一切無関心であった。
学校の先生も、なぜ?こんなに私が荒んでいるのか?何故このようなことになるのか、深くかかわろうともしなかった。
ただ、謝れということだけだった。

四ね!
大人みんな四ね!四ね!shine!shine!

私は、いつでも、どこでも、謝りっぱなしだった………
なぜ、生まれきたのか……
京都の鴨川が家のそばに流れいた。京阪電車の踏切が橋の上にあり、ガタゴトと通り過ぎていた。
鴨川沿いに流れてきた入水自殺の人を引き上げるのをみた。

京阪電車の踏切に飛び込む一人も多かった。
いつでも、死ねる
電車でも鴨川にでも飛び込める。
いつでも死を選ぶことができる。
人生の選択肢に死があった。

中学校に入学した私は朝起きてもだるく眠たく生きた心地がしなかった。
いつでも死の選択ができる。
生きている実感がまるでなかった。
中学校に入ると直ぐに、小学校での暴れぶりが評判になり、違う小学校からの、ハンドボール部室にボス女と取り巻き10名ぐらいの部員女子に呼び出された。
「あんた、小学校の時にこの子に
土下座させたでしょ」
と京子ちゃんを連れてきて、部室で円になって囲まれた。
確かに私が土下座をさせた女の子であった。
「あんた、京子ちゃんに土下座しな!同じことをしな!!中学校になったら、あんたは全学級無視になるようにするから」
私は部室の中で、10名ぐらいの部員に囲まれながら、京子ちゃんに土下座した。
「京子ちゃんごめんなさい」
私は、埃臭い部室の床に頭をすりつけた。
私は、わんわん泣いた。
悔しくて泣いた。
悲しくて泣いた。
怒りに満ちて泣いた。

そして、何よりも、京子ちゃんにごめんなさいをしたことで、京子ちゃんに悪いことをしたと罪悪感にかられた。

ただ幸せで優しく可愛い京子ちゃんを、自分の嫉妬で意地悪をしたことを悔いた。

私なんて
死ねばいい……
本気で死の選択肢は身近なもになっていた。
私は、同級生に一年間一斉無視をされていた。(しかし、2年生になると、ハンドボール部のボス女は次のターゲットをみつけ一斉無視はなくなった)

相変わらず、父親のオンナのご機嫌をとることで、父親は、私を殴った。中学校では一斉無視が続いた。 

何処にいても幽霊のような存在であった。
生きている幽霊だ。


忘れもしない………あの瞬間

晴れ日である夕食の買い出しに行く途中。鴨川の橋の欄干につかまり、飛び降りたら?どうなるかな……と
欄干の下を覗きこんでいた時であった…………

風が吹いたのである………
サーっと風が吹き、私は身体を欄干から起こし、空を見上げたのである……………

空の色が青こと青こと
太陽の光が燦々と光っていた。
うわぁ〜
キレイ〜
なんて
美しい〜
わけもなく涙がポロポロとこぼれた………
そして、心から感じた………
「生きてなよかった」

私は何かにふれたのである。

それは、神?仏?グレートスピリッツ?守護霊?
いや、私の身体の奥底と心と精神と何か?誰か?とつながった一体感であった。

上手く言えないが、私はその時から、何があっても、生きようと感じたのである。
命ある限り、生きることが私の人生だと感じた。

死んではいけない……
あの青い色と太陽の光の声を聴きいたのであった。

そもそも我々が人生の意味を問うてはいけません。
我々は人生に問われている立場であり
我々が人生の答えを出さなければならないのです

(ヴィクトール・エミール・フランクル(1905326-199792)は、オーストリア・ウィーン出身の精神科医、心理学者。『夜と霧』の著者として知られる人物であり、同書はフランクルが第二次世界大戦中にユダヤ人である為にナチスによって強制収容所に送られた経験を元に書かれた)

フランクフルは言う。
私が人生に期待しているのではない
人生が私に期待をしているのだと。

それでも、人生にイエスと言おう!

丑婆の体験は特別ではありません。
特別意識はありません。
同じような体験の方もいらっしゃるはずです。
色即是空 空即是色🙏

#自己紹介 #いじめ  #DV  #生きる

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