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drachm

ああ、そうしよう。

アイディアのきっかけなんてものはいろんなところに落ちている。問題は自分がそれに気付けるセンサーを持っているかどうかだ。

昔からね、人とうまくやるってのはどうも苦手な方だったらしいんだ。あんまり思春期を過ぎるまでそんな風に思ったことはなかったんだけれど、なんていうかこう育った環境や引越しが多かったせいでどこか達観しているというか、友達の輪のメインストリームみたいなところから一歩引いている自分がいるというか。結局のところ「こいつらとは生涯を添い遂げる友人にはなれないよな」という諦めのようなものがずうっと心の表面に被っていて、それがいまだに拭えていないような気もするんだよね。

裏を返せばそれは、なんとかして自分にとってのマブを見つけたいってことなんだけれど、僕の場合は相手への愛が重たいんだろうな。それが愛情から執念に変ったときに、絶対に相手に迷惑をかけてしまう。そんな気持ちがあるからどこかでセーブしているような気もする。

大人になるっていうのがどういうことなのか、最近はようやく理解してきたというか、「てめえなにくそこの野郎!」みたいなのが最近はなくなってきたようなところはあって、それは何も迎合したり言われたことを鵜呑みにするんじゃなくて、なんで言われたのかっていう理由をじっくり考えてみる余裕ができてきたってところが大きかったりするんだ。強がったって世界は変えられないし、孤高で生きていくこともできない。俺は俺だよって言っても独りよがりでは生きていけないんだよね。残酷だけれどそれが現実だし、一人で生きてもつまらないような気もするし。

だから、何かデモクラティックなものに迎合するっていうのを酷く嫌ってはいるのだけれど、そのことと、誰かのために自分を柔軟にするってことはどうも違うんじゃないかなあ。って最近は思ってて。そんな風にして、要や奥大人になることを理解し始めたんだよね。遅えよ。って思いもするけどさ。

この年になってもやっぱり納得いかないことはあるし気持ちと思考をすり合わせなきゃいけないこともあるんだけれど、「それはそういう世界線だったわけ」だし、せっかくならそういうものをひと笑いできるネタに昇華できたら、それほど嬉しいことはないんじゃないかって思うんだ。何もそれは物事を軽んじるってことではないし、それを生きる糧にできたら誰も損しないじゃんって思ったりしてて。まあそうは言っても譲れないところが多いんだけれどね。でも、そんな話を笑いながらできたらさ、いいよねって今日思い切ってちょっと友達に言ってみたらなかなかいい反応だったよ。大変だけど応援してるよっていうより、そうやって一緒に闘っている方が僕は嬉しいなって思うしね。

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