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「I am enough.」繊細で刺激好きの私が見つけたもの

コロナのせいでと言うか、おかげでと言うかを迷うくらいには、この突然の療養期間は私の人生にとって必要だったと思えるものになりました。(現在進行形)

オンライン以外の全てのお仕事をお休みさせていただくという申し訳なさや不甲斐なさ、そしてこつこつ続けて来た活動を中断することへの不安に、最初こそ苦しみましたが、

「せっかくのこの《無》の時間を有意義に過ごそう!」と切り替えてからは、思いがけず夏休みを頂いたと思ってありがたく満喫しています。

まず体が落ち着くことで、脳が落ち着き、心が落ち着き、忙しない日々の中で当たり前になっていたペースから、本来の私が望むペースにリセットされたような感覚。

私は本来、家で何もしない静かな時間に至福を感じる人間で、これまでどうやってこんなにもたくさんの方々と日々関わりながら、表に出るような活動をずっとしてこられたんだろうと不思議に思います。

でも同時に、刺激的で心躍る出会いや体験や成長もいつも求めているし、そういう場面では間違いなくこれ以上ないほどの幸せを感じています。

この自分の極端な二面性に振り回されながら、これまでは活発な自分がメインとなって生きてきましたが、刺激に弱い自分がそろそろ限界を迎えているのも分かっていて。

日常の細かなひとつひとつから、仕事や活動における大きな選択まで、どちらの自分にとっても優しい対応をしたい。

元気な心身があれば、本当はもっともっといろんなことに挑戦したい!

たくさんの人と、様々な機会で、演劇やダンスや歌や英語に関わりたい!

でも怖い。
自信がない。

どっちかを犠牲にするしかないのか…
でもどっちも諦めたくない…

そんな風に散々アップダウンを繰り返しているうちに、ふと思いました。

私が必死に守ろうとしている、もしくは超えようとしている「こうでなければいけない」という基準は、一体誰が決めたものなんだろう?

健康、プロ意識、クオリティ、スキル、様々なものにおいて、私は“得体の知れない何か”を基準にしていることに気付きました。

そしてその「こうでなければ」はもはや強迫観念となって、自分で自分を苦しめる足枷となっていることに。

そもそも、
私は何を目指してるんだっけ?
どうしてやってるんだっけ?
何かにならなきゃ幸せじゃないんだっけ?

違う、
私がやってるのは、
楽しいから。好きだから。
ああ、そうだ。
それが始まりで、それが全てで、
それこそが素晴らしくて、
それでいいんじゃないの!?!?

…と、かれこれ3週間になろうとしているこの療養期間のおかげで、ここまで辿り着けました…!

「I am enough.」

日本語だとなかなか表現がしっくり来づらいですが、直訳すると「私は十分。」

何をしても、しなくても、私は今のままで過不足なく素晴らしい。

もっと上手くなければ、こうでなければ、権利はない!価値はない!そう24時間自分に言い続けてきた人生でした。

そのおかげで不器用な私もいろんなことが出来るようになりましたが、もうそんな風にお尻を叩き続ける必要は無い。

それよりも、

「私は今のままで素晴らしいけれど、もっとこうなりたい、だからやってみよう!」

「私は今のままで素晴らしいけれど、これが出来るようになりたい、だからやってみよう!」

そんな風に、ありのままの自分の素晴らしさを大前提に据えて、進み続けたい。

向上を目指すことはやっぱり素晴らしくて、楽しくて、幸せで、だからきっと私はこれからも、ほっといてもあれこれもがいていると思います。

その途中でまた何度も路頭に迷うでしょうが、その度に「I am enough.」に戻ってくればいいと知っていることは、とても心強いです。

もうアクティブに活動することは出来ないんじゃないか、なんてすっかり自信も勇気も無くしかけていましたが、

「すでに素晴らしいんだったら、何したってしなくたっていいや!」

なんて気楽に考えられるようになった途端、したいことやパワーがむくむくわいてきました。

これから先の人生を元気に楽しく生きていくために必要な気付きを得ることが出来、たくさんご迷惑をおかけしてしまっていますが、この機会を恵んでくださった全てのご縁に感謝します。

ここまで読んでくださった方もありがとうございます♡

I am enough. だし
You are enough. です☺️🕊️

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小野村優【小野村さんの書き物】
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