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映画『君たちはどう生きるか』をどう観るか

本文は、先日2023年7月14日に公開された映画『君たちはどう生きるか』の感想をつれづれなるままに書いたものです。

ネタバレを避けたい方はスクロールせず離脱することを推奨します。

既に鑑賞済みの諸賢、あるいはネタバレウェルカムの奇特の皆々様は、ぜひともご笑覧くださいませ。


1. ありきたりなメガネで

新しい母ナツコを受け入れきれず、死んでしまった本当の母が生きていたらと願いながら、新しい生活にも馴染めずにいる少年マヒトが、世界の本質や不条理と向き合い、冒険のなかで成長し、内面に閉じこもることをせず現実を選びとる物語。

私は上記のように、この物語を至極ストレートに受け取りましたので、以下記載の感想についてもこのような流れとなります。

巷には多種多様の解釈があるかと思いますが、正解や不正解があるわけでもないですし、どうか穏便に、ひとつこういうありきたりなメガネをかけてみるのもおもしろいな、くらいで一読ください。

2. ベンヌとフェニックスに彩られた不死への憧憬

冒頭、主人公のマヒトが母方の実家に疎開し、新居となる屋敷での生活に馴染んでいく一連に、多分にアオサギの描写があります。

優雅に屹立し、飛翔し、捕食し、ついに滔々としゃべりだすアオサギ。
このアオサギこそ物語の案内役にして、核心を体現するトリだと突きつけられます。

なぜアオサギなのか。

エジプト神話のベンヌではないでしょうか。

ベンヌはアオサギのような姿をした不死鳥です。
不死鳥といえば、諸賢はフェニックスを真っ先に連想するかもしれませんが、そのフェニックスはまさにこのエジプト神話のベンヌが原型とされています。

と、ここで気づくのがこの映画の最初のシーン、マヒトの母が戦火に焼かれるところ、さらにその後火に包まれた母の姿が鮮明に夢に出てきます。

そしてそして、「下の世界」で登場するマヒトの母もといヒミは至極鮮やかに火を駆使しており、すこし大仰かもしれませんがやはりこれはフェニックスをイメージさせる描かれ方だと思うのです。

ベンヌやフェニックスがマヒトの周囲に溢れている。
母の死を受け入れられないマヒトの、不死への憧憬がしたたかに反映されているのでしょうか。

他方、アオサギの中身が人という点もアイロニカルでおもしろいですね。
換言すれば、人がアオサギを被っているというなんとも滑稽な事象なのですが、ベンヌオマージュだとするとなんとまあメタフォリカルなことでしょう。

死が、不死を被っている。
死すべき存在が、死なない存在のフリをしている。
「詐欺男」って、そういう意味の詐欺なのかもしれませんね。

そして何より本作のポスター、素敵ですよね。

3. 残酷な下の世界

母は死んでいないとそそのかすアオサギの詐欺男に連れられて下の世界へ。

このときのマヒトの動機は死んだ母に会いたいというものでしたが、冒険を経るにつれて身重のナツコを連れ戻したいというものにシフトしている点は興味深く、オーソドックスな冒険譚として感動しました。

ひとりの少年が世界を受け入れていくというただそれだけで美しいものです。

反面、残酷な描写も多いです。

生まれる前のプリティーな魂たち、わらわら。
わらわらはサカナの内臓を食べて、空高く飛んでいき、生まれようとします。
わらわらを、ペリカンが捕食します。
そのどちらをも、ヒミの火は圧倒します。

水に生きるサカナをエネルギー源とするわらわらと、火のエネルギーを駆使するヒミが好対照として描かれ、ここに生と死(不死)の相克があるように感じました。

後ほど詳述しますが、私はペリカンを愛のメタファーだと考えていまして、老いたペリカンがエサの枯渇を嘆いているシーンは非常に趣深く、下の世界では愛が生きていくにはかなり厳しい状況だと捉えられます。

対照的にインコはとても生き生きとして軍隊まで形成していますね。

4. 愛や富やいつかの自由

ペリカンは中世の芸術作品でよくキリストや愛のメタファーとして用いられる存在です。
自らの胸をくちばしで突いて血を流し、それを雛鳥に飲ませるというあの伝承が愛に満ちているということで。
かのルーブル美術館の名品『ナルボンヌの祭壇布』にも、磔にされるキリストの頭上にペリカンが描かれています。

インコは言葉を真似るのが上手です。
なので、大衆あるいは衆愚を表していると捉えることもできるかと思いますが、直感的にはアナグラムだとおもしろいなと思いました。
インコのアナグラムはコイン。
つまり、富。

曲解のそしりは甘んじて受け入れますが、それでも、ペリカンが愛で、インコが富だと捉えてみるとおもしろくないでしょうか。

ペリカンは餌に困っていて、インコは大王を中心に潤っていて、世界の愛は縮減し、一部の富は増大している。
インコは餌に困っているどころか、包丁を使って料理をたのしむ余裕すらあります。

また、インコ大王を中心とした軍隊、その組織が石の塔を占領しているというのは、どことなくヨーロッパ地域や軍国主義、資本主義の波をも印象させます。

木の家ではなく、石の塔ですからね。
建築物の素材として、戦時下の作品ということも考慮すると、木と石は日本的なものとヨーロッパ的なものの対比と受け取れるかと。

いずれにせよ、インコ大王が世界を崩壊に導いたという点が最も象徴的なシーンではないでしょうか。

インコ大王の重んじる富や軍隊なんかより、現実世界で友達をつくることを優先したマヒトの英断が、決定的に彼を怒らせてしまいましたね。

マヒトは冒険のなかで下の世界の本質を見抜き、石を積んで下の世界に加担することを選ばなかったのではないかと思います。

そもそも、下の世界にはなぜトリばかりが登場するのでしょう。

トリという種の概念だけを取り上げると、自由の象徴と言ってしかるべきもの。

とすると、ややもすると、大叔父様のつくり出した原初の世界において、トリ概念はインコやペリカンのように派生せずただただ自由に飛び回っていただけなのではないかという推測をしてみたくなります。

大叔父様の積み木で世界の均衡を保つのが難しくなってきたあたりで、メタフォリカルなインコやペリカンに派生したのではないかという、そんな推測もありなのではないでしょうか。

悪意のない人間が石を積み上げなければならないということを大叔父様が言うそのさまは、まるで自らは悪意を発露させてしまい、そのせいで世界の均衡が崩れつつあるとでも言わんばかりです。

その悪意の発露の結果が、老いたペリカンの悲嘆に見てとれるように、愛に生きるはずのペリカンたちが生まれる前の魂わらわらを捕食しなければならない残酷な世界なのではないでしょうか。

残酷さで言えば、現実世界で自らを死に至らしめた炎を身に纏い、それをアイデンティティとして下の世界で生きるヒミについては言わずもがなです。

5. 塔をつくるにしたって、友達をつくるにしたって

吉野源三郎の小説『君たちはどう生きるか』へのオマージュとして本作のタイトルも同様になっていますが、いずれにせよタイトルで問われているのですから、答えようとせずにはいられません。

しかし答えようとしたところで、一筋縄ではいかないもの。

友達とケンカしたり、自傷をしたり、詐欺師にそそのかされたり、世界の不条理をたくさん目の当たりにして、それでも前を向いて答えを探そうともがくしかありません。

どこまでも残酷なこの世界で、望んでもいないのに生まれてしまったのだから生きるしかない私たちは、せめてどう生きるかくらい選びたいものです。

塔をつくるにしたって、友達をつくるにしたって。


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