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映画『ピストルと少年』

ジャック・ドワイヨン『ピストルと少年』(1990、フランス、100分)
原題:Le Petit Criminel



この映画も本当に好きだなぁ。
こういう作品を映画には求めているのだよね、私は。


主人公マルクはまだ年の頃14~15ぐらいだろうか、アルコール依存症の母と暮らしている。
評価もせず認めてもくれない先生たちと折り合いが悪く、もう2週間も学校に通っていない。
そんなとき、母からは死んだと聞かされていた姉から電話がかかってくる。
蒸発した義父から勝手に拝借した拳銃を片手に、マルクは薬局で現金を奪い取り、顔も名前も知らない姉に会いに行こうと目論む。
思案しながら街を歩いていると、普段から目をつけられている刑事に職務質問され、身体検査をさせられそうになるが…



いつも思うのだけど、どうしてこんなに演技が上手いのだろう?
私は演技論なども学んだことはないし、何本か映画を観てきただけの素朴な感想でもあるのだが、感嘆されられっぱなしだった。

もちろん、役者の演技力だけに寄りかかったりはしないはず。
脚本×演出×撮影(照明含む)×音楽(音響)×編集、とあと何があるかな?これらの掛け算の結果が画面に表れているとは思う。

なおかつ、キャスティングつまり配役ひいては俳優選びで、映画の8割ぐらいは決まってしまうのではとも考えている。

それにしたって、少年のマルク、姉のナタリー2人の子役があまりにも巧い。
追い込まれ一線を越えてしまった自らに震えながらも、必死に要求をする姿。
最初は戸惑いからか腰が引けていたが、弟が窮地と知るやいなや身を挺して守ろうと牙を剥く態度。

それぞれ俳優としてはほぼデビュー作のようで、その後の出演作を調べると現在に至るまで多数の作品に出演。
この場合は、ともに最初から役者としての才能があったとも言えるかもしれない。


加えて、背伸びはしていてもまだ幼さをわずかに残している2人に振り回され続ける間抜けな刑事が、また憎めない人物を造り上げて、うまくまとめている。



物語は基本的にこの3人だけで進行する。

私が映画で特に重視しているのは脚本の完成度で、どれだけ綻びを見せず観客を納得させられるかが成否を分けると思っている。
「この話、この先どうなるんだろう?」と思わせた時点で展開としては優れていると思うし、今作では自ら脚本も手がけたドワイヨン監督の力量を堪能できる。

あからさまな説明を排して、だんだんと人物の背景が見えてくる描き方。
「いつも疑ってくる嫌な刑事」という大雑把な属性だったはずの男が、次第にジェラールという「個人」として立ち現れてくる。
そうなんだよね、人間一人一人に、それぞれ個別の物語があるんだよ。
そこを丁寧に見つめてほしい、と誰もが本当は希求しているはず。
この映画はそれを具現化している。

マルクも心の底では、どの街にもいそうな「不良少年の一人」ではなく、他の誰でもない「マルク」個人として扱って欲しかったのだと思う。
だからこそ、あれだけ自分の名字にこだわったのだ。
何の繋がりも感じられない義父のではなく、初めて会ったけど大好きになった姉と同じ名字に揃えたい。
元々の、本来そうあるべきだった自分の名前に戻りたいのだ。



マルクのずっと抱えていた孤独の深さを思うと、家族と分かり合いたい、その嘘のない気持ちの強さにこちらももらい泣き。

どちらかというと観終えた後の余韻で感情が溢れ、嗚咽した。




ジャック・ドワイヨン監督の名前は見かけたことはあっても鑑賞するのは初めて。
フランス映画史の幅広さと分厚さを改めて思い知る。


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